2015年4月18日
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和歌山カレー事件に見る、科学鑑定への誤解が冤罪を生む構図

河合潤氏(京都大学大学院工学研究科教授)
マル激トーク・オン・ディマンド 第732回

 以前に一連の原発問題の議論の中で、われわれの社会において「科学の民主化」と「民主の科学化」がいずれも大きく遅れている問題が指摘されたことがあった。
 「民主の科学化」については一般の市民が科学的な思考をする習慣が身についていないことを、「科学の民主化」では科学者が科学的に正しいことだけに目が行くことで、民主主義にとって何が正しいかの視点が欠けていることが問題になっていることを学んだ。
 そしてそれが、日本が原発問題で一つの方向性を打ち出すことを難しくしているのではないか、という論点だった。
 どうもその問題が司法の世界にも持ち込まれているようだ。そして、それは人を裁きその自由を奪ったり、場合によっては死刑という形で合法的に人の命を奪うこともあり得る司法の場では、取り返しが付かないほど重大な事態に発展しかねない危険性を孕んでいる。
 夏祭りの炊き出しのカレーに猛毒のヒ素が混入し、4人の死者と60人以上の怪我人を出した和歌山カレー事件で、既に死刑が確定している林真須美死刑囚の犯行を裏付ける唯一の物証となっていた科学鑑定の結果に今、重大な疑義が生じている。
 これまでこの番組では事件の捜査や裁判の問題点、林真須美氏の死刑判決の物証となった科学鑑定、いわゆる「中井鑑定」の妥当性の問題などを指摘し、最高裁判決が依拠している科学的な根拠が実は脆弱で、そもそも鑑定に示されている「異同識別」の結果が読み違えられている可能性があることを指摘してきた。
 今週のマル激では死刑判決の根拠となった科学鑑定に最初に異論を唱えた、京都大学大学院教授で蛍光X線分析の専門家の河合潤氏をスタジオに招き、科学鑑定と司法が抱える重大な問題を議論した。
 1998年7月に死者4人負傷者63人を出した和歌山カレー事件をめぐる林真須美氏の裁判は、2009年4月に最高裁が上告を退けたことで死刑が確定している。最高裁は判決の中で、カレー鍋に混入されたものと組成上の特徴を同じくする亜砒酸が林真須美氏の自宅から発見されたこと、林真須美氏の頭髪からも高濃度のヒ素が検出されていて、付着状況から林真須美氏が亜砒酸を取り扱っていたと推認できることなどを理由に、死刑判決を支持している。
 林真須美氏は黙秘を貫くなどして、一貫して犯行を否認していたが、自白や動機の解明が行われないまま、裁判では、犯行に使われたヒ素の流通経路や組成の同一性が、いわゆる中井鑑定によって裏付けられたことで、真須美氏の犯行であったと断定されている。中井鑑定はかつて真須美氏の夫・健治氏がシロアリ駆除業を営んでいたために林家に残っていたヒ素と、ヒ素をカレーに投げ入れるために使われたとされる、現場のゴミ袋から回収された紙コップに付着していたヒ素が、同一のものだったと結論づけたもので、林真須美氏が犯人だったと断定する上での決定的な証拠となった。
 しかし、京都大学大学院の河合潤教授が中井鑑定の中身を検証した結果、この裁判では中井鑑定に対する大きな誤解があることが判明した。中井鑑定は事件の関係先9箇所から採取したヒ素がいずれも同じ起源であることを示しただけで、それはその地域で流通するヒ素がほぼ同じドラム缶に入って中国から輸入されたものだったために、当然のことだった。
 中井鑑定はむしろ、林家から発見されたヒ素とカレーにヒ素を混入されるために使われた紙コップに付着していたヒ素とは、軽元素の不純物の含有量が一致しておらず、まったくの別物であることを示していた。しかも、林家のヒ素よりも紙コップに付着していたヒ素の方が、3倍から7倍も純度が高いものだったことから、林家にあったヒ素を発見された紙コップを使ってカレーに投入するというストーリーがあり得なかったことを、中井鑑定は示していたのだった。
 河合教授の指摘と、裁判で使われた中井鑑定を実施した東京理科大の中井泉教授の間では、その後、学会誌の誌上などで激しい論争となっている。一見、素人には難解な専門的な論争に見えるが、その中身を詳しく見て見ると、実は非常に初歩的な問題点が議論されていることが分かる。
 要するに中井教授は、検察から依頼された9つのサンプル中に含まれるヒ素の「異同識別」という鑑定嘱託書の意味を、ヒ素の起源が同一だったかどうかを鑑定して欲しいと依頼されたものと理解し、それを行ったまでだった。しかし、その起源が同一であることは、先述の通りむしろ当たり前の結果であり、それではまったく林真須美氏の犯行の裏付けにはならない。しかし、にもかかわらずマスコミはその鑑定結果を「林宅と紙コップのヒ素が一致」と大々的に報じ、特に化学などに特別な素養があるわけではない裁判所も事実上、その報道と同レベルの解釈によって、鑑定結果を林真須美犯人説の裏付けとしてしまったのだった。
 そして、河合教授が弁護側からの依頼で、単純に中井鑑定の結果を「林真須美氏が犯行を犯していない可能性」を裏付けるために再度検証した結果、不純物の組成などから、中井鑑定はむしろ真須美氏が犯行をしていないことを裏付けるデータを提供していたことがわかったのだという。
 林真須美氏が逮捕された当時、捜査機関は夏祭りの炊き出しカレーに猛毒のヒ素が混入し4人が亡くなるという、社会を震撼させるような大事件に直面しながら、容疑者を特定することができずにいた。そうした中、マスコミが、事件が発生した現場のすぐ隣に住む林真須美夫妻が怪しいという報道を始め、真須美氏に対するインタビューなどを報じ始めていた。
 確かに、林夫妻はそれまでに保険金詐欺を働いたことなどがあり、その行動に怪しい点があったのは事実だったが、カレー事件と夫妻を結びつける証拠は見つかっていなかった。そこで林家にあった、夫の健治氏がかつて使用していたシロアリ駆除用のヒ素と、紙コップのヒ素の起源の共通性を調べる鑑定を中井教授に依頼し、その結果をもってとりあえず真須美氏を逮捕した上で、自白を取り付けるというシナリオを描いた。それが9つのヒ素の「異同識別」の鑑定依頼だった。
 ところが、真須美氏が一貫して否認を貫いたため、検察はとりあえず逮捕容疑を裏付けるための口実でしかなかった中井鑑定を、公判の最後まで引っ張らなければならなくなってしまった。そして、マスコミや裁判所の科学鑑定結果に対する無知と無理解ゆえに、それがそのまま死刑判決につながってしまった。
 今、そのような疑いが濃厚になっているのだ。
 「異同識別」だのヒ素の「同一性」などといった、実際には科学的ではない微妙な言い回しが、このような誤解を招き、それが死刑という取り返しの付かない判決に行き着いていることを、果たして検察や鑑定を行った中井教授はどう理解しているだろうか。確かに「自分は起源の同一性の鑑定を頼まれてそれを行っただけ」との釈明は成り立つのかもしれないし、検察も「鑑定の通りにその同一性を主張しただけ」と強弁することは可能なのかもしれない。その場合は、無知な裁判所やマスコミが、勝手に誤解をしたということになるのだろう。
 しかし、これこそが正に「科学の民主化」の問題であり、「司法の民主化」の問題なのではないだろうか。マスコミもこの問題を大きく取り上げにくいのは、事件当時真須美氏を犯人扱いするひどい報道をしてしまった手前、今さらそれに疑義が生じているというようなことが報じ難いことは想像に難くない。しかし、今やそれは人一人の命が懸かった、取り返しのつかない重大な問題になっている。
 河合教授の指摘によって今、ボールはわれわれ市民のコートにある。今こそ、「市民の科学化」が問われている。河合潤教授とともに、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。

 
河合潤 かわい じゅん
(京都大学大学院工学研究科教授)
1957年岐阜県生まれ。82年東京大学工学部卒業。86年同大学大学院工学系研究科博士課程中退。理化学研究所研究員、京都大学工学研究科助教授などを経て2001年より現職。工学博士。著書に『量子分光化学』、『蛍光X線分析』など。
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