マル激トーク・オン・ディマンド 第335回(2007年08月31日)
5金スペシャル 映画特集 マイケル・ムーアは終わったのか
ゲスト:森達也氏(ドキュメンタリー作家)
5回目の金曜日は特別番組を無料でお送りする5金。今年3回目の5金は、ドキュメンタリー作家の森達也氏を招いての超辛口映画特集をお送りする。
まずは、『華氏911』のマイケル・ムーアの新作『シッコ』について語り合う。ロジャー・アンド・ミー以来20年来のムーア信者を自称する神保氏が「今回はいいところは何も無し。マイケル・ムーアは終わった」と酷評したのに対して、「『華氏911』は最低だった」と断じる森氏は、「ドキュメンタリーに大切なメタファが戻ってきた」とむしろ今作品を評価し、そもそもドキュメンタリーとは何なのかをめぐる神学論争に発展。宮台真司は、作り手側に立つふたりに、「ドキュメンタリーの作り手は観客の欲望にどう応えるべきか」を問いかける。
後半は、カリフォルニア州在住の映画評論家・町山智浩氏も電話で参加し、米国での『シッコ』の評価と、マイケル・ムーアの政治的背景、社会問題を扱った硬派な映画がハリウッドで制作されている理由を語る。
『シッコ』の他、ブッシュ大統領の暗殺をドキュメンタリータッチで描き物議を醸している『大統領暗殺』、放送禁止語が乱れ飛ぶ『FUCK』、『グッド・シェパード』、『ルワンダの涙』、『ナイロビの蜂』、『ブラッド・ダイアモンド』など、最近話題のドキュメンタリーや実話を基にした社会派映画について、とことん語り合った。
森 達也もり たつや
(ドキュメンタリー作家)
1956年広島県生まれ。80年立教大学法学部卒業。86年よりテレビ番組制作会社『テレコムジャパン』(現テレコムスタッフ)に入社。ドキュメンタリーや報道番組を手がける。96年、フリーランスに。98年『A』を発表。2001年『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。著書に『放送禁止歌』、『職業欄はエスパー』、『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』、 『豊かで複雑な、僕たちのこの世界』など。
この記事へのコメント
一応、形式的な批判が在ります。プロパガンダ、カウンタープロパガンダ、アンチプロパガンダの3つですが、アンチは現実という地面に着地しない、浮遊感があります。さもすれば、神秘主義に陥る危険があり、「色々世の中、複雑なのは分かった。それで一体なんなのよ?」となります。
単純ではありつつも二項対立図式は深いです。動くか or 眺めるか の二項で考えれば、ドキュメントはただ傍観してるだけで、プロパガンダにもカウンターにもなっておらず、行動に転化されません。いわば保守であり、現状追認です。
その反面、関心を抱かせようとしているのだから、テーマを扱うこと自体が、僅かながらプロパガンダとも言えます。しかし、その反動で、視聴者や読者からは、表現者は進歩的だという印象が残ります。無視すれば良いのに、わざわざ動いてるからです。
ドキュメントのフォーマットを、パロディーにして、笑いにするのもありますよね。『エスパーを信じるか信じないか?』を『カツ丼は飛ぶか飛ばないか?』にするのです。そして、みんな真剣に話すんですよ。
「物理法則に反している」「プラズマの力で浮かばす事ができる」
「経済に与える影響は計り知れない」
「みんな一面しか見てないよ。飛ぶのは器だろう?だったら天丼にも仕えるはずじゃないか!」
出前サービスで働く人は「仕事がなくなるよ」と不評。
経営者は「いい話だ。費用も浮いて助かるよ」と好評。
「カツ丼が飛ぶはずが無い」「目の前で飛んだではないか!」
「信じない人は、目の前で飛んでも信じないからね」
最後にテロップで「私はカツ丼が飛ぶと、信じてません」
最近のバラエティーでは、他愛のない事を大袈裟に扱う事で、笑いを取るのがありますが。ドキュメントの形式そのものも、お笑いにされる事もあるのかな・・・なんて思いました。
カウンタープロパガンダは、何かオブジェクトを必要とします。大きな権力や存在がないと使えない手法です。不必要に、社会が悪い、世の中が悪いと訴えていると、「あんた一体何様?」と反感を買います。
しかし、全体性そのものが静止しているとしたら、まずは最初にプロパガンダを仕掛けないと、情報空間は動きません。止まってる状態では、全体が在ってない様な物です。
ちなみに私が見た映像で衝撃を受けたのは、『イラク首切り動画』・・・ではなく『イラクの首切り動画のパロディー』です。これには笑った。大爆笑。世界中の中高生が、人形の首を切ってるんです。たしか、米国人や日本人が作ったのもあったんじゃないかな? 視聴者の内面を映すという意味では傑作です。一方はテロ、一方は政治、一方は残虐性、一方はメッセージ、一方は遊戯、そして最後に届いた時は、既に笑いになっている。政治が喜劇になる状況と似ている。
つまり、体裁とか気にするなって事です。人の不幸は愉快。そんなもんですよ。自由が大きすぎて、選択肢が増えすぎなのです。だから笑ってしまうんだ。最近は漫画やアニメでも、〈可能世界〉が描かれます。扉が沢山あって、どの世界を行くのか決めるのです。言わば〈扉型神話〉です。でもね、どれも奇麗事なんですよ…。「俺は、この世界が大事なんだ」「愛すべき者の為に戻って来た」とか、言ってる訳です。
例えば、『ドラえもん 新魔界大冒険』では、もしもボックス、という道具で、〈魔法の世界〉から、〈普通の世界〉に戻って来れてメデタシメデタシと、なります。しかし、この時点では、魔法の世界の問題が解決してないので、のび太くんはヒステリックに怒るのです。これがとても白けるんですな。
なんで、そんな奇麗事、言うんですか?違うでしょ? 自分さえ良ければよくて。平和は既に利権でしかなくて。だから平和を望んでいて。自分の為の自己責任であり。だから自己決定なんでしょ? だったら失敗して堕ちた人を、嘲笑えば良いじゃないですか。
自己責任が苦でない人もいます。要は自由を誰のために使うのかです。私たちの暮らしが、多くの犠牲の上に成り立っているとしたら、それを見て見ない振りが出来ますか? 確かに見ない自由もあるでしょう。過剰な自由は、関係性を希薄化し、人を異常な程に残酷にします。迷わず、信じられる価値が、欲しいのです。
少女漫画では、主人公の周辺の人物が病気になるのが、一つのセオリーとなってます。病気の人を看病します。言わば〈病気看病型神話〉です。多くの場合、悩んでないんですね。作者も看病するのが当たり前だと描いています。〈病弱〉である事は社会的にも、神聖な力と表裏一体なので、当然と言えば当然であり呪術的です。
傍観者の神秘主義も良いけど、信じられる価値を秘めて行動するのも大事。自由は扉。信仰は鍵。目指す明日はどこにある? プロパガンダの役割は、どこにあったのでしょうか。私達の前には、扉は埋もれるほど、あるのに、扉を開けるだけの勇気がない。ムーアさんは、どんな気持ちで木を揺すったのでしょうか。
ノクノク |
2007年09月27日 05:03
>それはこれまで体をはって作品をつくってきたムーアだからこそ集まってくるわけで
Amandlaさんの発言のこの部分についてですが、いくら過去に偉大な業績をあげたとしても、それにあぐらをかいて挑戦することをやめてしまったら、それはクリエイターとして致命的な問題だと私は思います。
神保さんの発言もそういう意味なのではないでしょうか。
puri |
2007年09月11日 20:49
今回の対談を聞いていて、私は朝日新聞に掲載されていた映画監督の是枝裕和氏の「華氏911」評を思い出しました。彼も結論ありきの善悪二元論で観る人の溜飲を下げさせるやりかたが果たしてドキュメンタリーと言えるのかと疑義を呈していましたが、その一方で、「作り手が原則にこだわるあまり僕たちの社会は、健全な形で怒りを表明する器としてのドキュメンタリーを失ったのかもしれない」とも書いていました。
お三方のムーア批判はおそらく正鵠をいているのでしょうけど、聞いていてなにか後味の悪さも感じました。(それほどムーアの作品が好きというわけでもないのに)途中から無性にムーアの肩をもちたくなる衝動に駆られてきました。「ムーアぐらいになると自分で取材しなくても映像が集まってくるのでそれをつなげばいいみたいになっている」と神保氏が発言してましたけど、それはこれまで体をはって作品をつくってきたムーアだからこそ集まってくるわけで、彼の怒りや広く社会にそれを告発していきたいという気持ちが本物であれば何の問題もないような気がします。
また、後半のほうで森達也氏が「(「シッコ」にしろ「大統領暗殺」にしろ)こういうのって日本で作れるのかな」という問題提起に関しては、もっと掘り下げて議論を展開してほしかったです。
Amandla |
2007年09月06日 23:38
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