マル激トーク・オン・ディマンド
炎上したっていいじゃないか
マル激トーク・オン・ディマンド 第394回(2008年10月18日)
炎上したっていいじゃないか
ゲスト:伊地知晋一氏(ゼロスタートコミュニケーションズ専務取締役)
 今年6月頃、毎日新聞をめぐりネットが炎上した。英文ウエッブサイト「毎日デイリーニューズ」のコラム「WaiWai」の内容があまりにも低俗だとして、掲示板などに批判が集中し、それをニュースサイトが報じたことで、さらに炎上に拍車がかかり、最終的に毎日新聞や毎日新聞のウエッブサイトに広告を掲載している企業の多くが、広告を取り下げるという事態にまで発展した。広告を出稿する企業に対しネットユーザーたちからの「問い合わせ」が殺到したためだ。ピーク時からすでに4か月近くが経つが、この「WaiWai」問題はいまだにネット上で燻り続けている。
 この「毎日WaiWai」問題は、2つの意味で特筆される。
 まず一つ目は、ネット上の言論が、いったん炎上状態にまで発展すると、実社会にまでも大きな影響を与えることが明確になったということ。そしてそれは毎日新聞のような大企業に対しても、経営の屋台骨を揺るがしかねないほど深刻なダメージを与える力を持っていることが確認された。
 そして二つ目は、これが言論エスタブリッシュメントを象徴する5大紙の一角を担う毎日新聞が、新たに勃興してきたネット言論の前に完全に屈伏した形で事態が収束している点だ。このことで、言論空間としてのインターネットの力が改めて注目されると同時に、その質や内容、社会的責任や公共性についても、再考すべき点が出てきたということができるだろう。
 ブログや掲示板などで特定の個人や団体・企業に対して誹謗中傷や脅迫を含む批判が殺到する状態を「炎上」と呼ぶ。06年、ホリエモンの「ライブドア社長ブログ」で大炎上を経験し、自身のブログでもいわれのない中傷や憶測による批判のコメントが集中した経験を持つ伊地知晋一氏は、ネットというメディアは一度火が点いてしまったら最後、何をしても殺到する批判を抑えることはできないと、自らの実体験をもとに語る。
 毎日新聞の場合も、当初は英文サイトの低俗な記事に対する素朴な疑問や批判が散発的に掲示板に書き込まれる程度のものだったが、毎日側がそうした批判に真摯に対応しなかったことから、時とともに批判や中傷が雪だるま式に膨れ上がり、最後は毎日新聞に広告を掲載している企業にまでいわゆる電凸(でんとつ=電話突撃)攻撃と呼ばれる抗議行動が、大勢の見ず知らずのネットユーザーの手で行われたり、関係者本人や家族の個人情報がネット上にさらされ、そうした人たちにまで電話やメールが殺到する、深刻な事態にまで至っている。
 無論、週刊誌等に出ている「噂」や「ネタ」といった次元の記事を、真偽の確認もないまま脚色し、しかも世界に向けて英文で配信していたことや、まさに炎上の渦中にそのサイトの責任者を社長や役員に昇進させたこと、お詫び記事の中に報復を示唆する挑発的な内容の文章を潜り込ませていたことなど、毎日側の体制や対応にもかなりの問題があったことは明らかだ。しかし、それにしても、世の中に問題企業は多い。なぜ毎日の問題は大火事にまで発展してしまったのか。
 炎上が起きるためには、その条件や一定のパターンがあり、ある程度炎上のリスクは予想できると伊地知氏は言う。そのため、過去の炎上の多くは、当事者がそれを理解できていないために起きたものが多い。
 また、ネット上の炎上が、特定の世代や、特定の意見に凝り固まった人たちが一枚岩になって起こしているように言われることが多いが、それも伊地知氏は否定する。実際ネット上には多様な意見があり、それぞれが自由に発信している結果にすぎない。伊地知氏はむしろ、団塊の世代や、団塊世代の意見を代表する旧来のマスメディアこそが一枚岩であり、それと異なる意見を取るに足らない少数意見としてしか認識できない感覚の方に違和感を覚えるとも言う。
 ネット言論は、各々が狭い世界の中で固まっているという面はあるが、多様な意見が存在し、それぞれが村を形成している。その村と村の間を互いに行き来をしながらも、他の村の内政には干渉しないという特徴があると、伊地知氏は分析する。
 そしてネットユーザーの多くは、マスメディアや団塊の世代が発する、社会はこうあるべきだという固定観念に、圧迫感や嫌悪感を感じている人が多い。マスメディアが発する通り一遍の解説や見解などの2次情報は、ネットユーザーにとっては単なる押し付けに過ぎず、余計なお世話だというのだ。
 とはいえ、ネット上での個人情報の流出や誹謗中傷、脅迫は絶対に許されることではない。実際に炎上を経験し、鎮静化を待つしかなかったと語る伊地知氏も、現在の日本ではネット上の誹謗中傷に対抗する手段が十分に整備されているとはいえないことに懸念を表す。
 論座や月刊現代などが次々と廃刊され、日本を長年支えてきた旧来の論壇が消えつつある状況の中で、「ネット論壇」や「ブログ論壇」と呼ばれる新たに現出した言論空間は、公共的な論壇の役割を果たすことができるのだろうか。あるいは、そもそも「公共的な言論」「公共的な論壇」という発想自体が、もはや時代遅れの発想なのだろうか。
 ホリエモン騒動の渦中にあって、自らが主宰するウエッブサイトで大炎上を経験し、その後著書「ブログ炎上」の中で、炎上現象を独自の切り口で分析している伊地知氏とともに、炎上と言論空間としてのネット論壇の可能性を議論してみた。

<関連書籍>
『ブログ論壇の誕生』佐々木俊尚氏
『ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性』荻上チキ氏
  • 三浦和義氏の突然の自殺に対する大いなる疑問
  • 警察官の目の前で振り込め詐欺
  • 政教分離問題急浮上の意味

マル激トーク・オン・ディマンド 第16回(2001年06月22日)
報道被害を生むものとは何か
ゲスト:三浦和義氏

マル激トーク・オン・ディマンド 第255回(2006年02月12日)
マル激トーク・オン・ディマンド 『ネット社会の未来像』出版記念特別番組サイバー社会の人間学

マル激トーク・オン・ディマンド 第267回(2006年05月13日)
Googleの何がそんなにすごくて何が危ないのか
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マル激トーク・オン・ディマンド 第350回(2007年12月15日)
なぜネット上の言論を規制するのか
ゲスト:堀部政男氏(一橋大学名誉教授・通信・放送の総合的な法体系に関する研究会座長)

プレスクラブ (2008年06月25日)
創価会館は裏選対事務所 矢野元公明党委員長

伊地知 晋一いじち しんいち
(ゼロスタートコミュニケーションズ専務取締役)
1968年鹿児島県生まれ。90年日本電子専門学校卒業。97年シノックス営業担当取締役就任、01年 プロジーグループ入社、営業部長就任。02年、オンザエッジ(現ライブドア)入社。03年メディア事業部執行役員上級副社長となり、ポータルサイト「ライブドア」を立ち上げる。06年より現職。08年より鹿児島大学非常勤講師を兼務。著書に、『ブログ炎上』、『CGMマーケティング』など。
この記事へのコメント

武田さんのやっつけ的な司会はなんとかならないのか。慣れってレベルじゃないですよ。

無記名 | 2008年11月17日 01:27

 古典的な全体性のイメージ → 『日本の群像』『がんばる、お父さん』。平面的な図を上から眺めるイメージ。公共のイメージは単一であり末広がり。
 近代的な全体性のイメージ → 「全体性とは、なにか?」「公共性とは、なにか?」問い続けることが重要である。公共性に決まりきった形などあろうはずも無く、各人の考える社会像を言い合うことで、おぼろげながら見えてくるものが公共性。お料理みたいなイメージであり、少量であっても、塩の入れすぎや隠し味が全体の性質を変えてしまう。多元的にはなるが公私の区別があり、まだ公共の概念は生きている。
 現代的な全体性のイメージ → [マル激][全体性][報道][社会学][宗教][2ch][YouTube][ブログ][神保][宮台][メディア][政治][アメリカ][ネット社会][天皇][大国][教育][初音ミク][アイドル][おたく][セカイ系][著作権][聖書][萌え][猫耳][666][文化系][理系][素粒子][ノーベル賞][ゲーム][同人誌][乙女ゲーム][エロゲー][ネトゲー][そんなの関係ねー][占星術][リアル][オカルト][ポケモン][オークション][女装][演奏][紹介][誘拐][愉快][VIPかららきすた]、タグです。何もかも混ざっているので公私の区別が付かない。漠然とした中に公共の雰囲気だけはあるのだが皮膚感覚がない。公共の概念を厳密化して行こうとすると曖昧になっていく。同じブログ内でも、言論がある一方でサブカルなどの趣味の話題もある(ただし性的な話題だけは隔離されてる様だ)。ジャンルの概念が乏しくなっているので混ざりやすく、アンケートと人気投票の境目も分からない。代表的なのは「ライブドア球団名公募ランキング」だろう。みんなで作った「クマ──!!」は(色んな意味で)傑作である。
 情報に全体性はない → もはやネットは平等ではなく、競争による情報格差が顕在化してきた。使いこなせる者と使いこなせない者がいるのである。文字を使える者、映像を使える者、プログラムを組める者、絵を描く者、検索できる人できない人、参加できた人、乗り遅れた人、無視される人、疎まれる人・・・。ネットには可能性と希望があり、ある部分では可能性は開いた。と言うことは、可能性から排除された者もいるのである。情報はそれ自体を享受するだけでなく、情報を通じてコミュニケーションをする事もできる。例えば、ネットウヨクと呼ばれる現象があったが、しかし今の時点でネットウヨクの祭りに参加しても寂しい。活気がある内は参加できるのだが、活気が無くなれば参加する意欲がわかない。例えば、昔はhtmlを覚えやすい雰囲気があった、しかし今から参加しようとしても「ブログにすれば?」と言われてしまう。つまり機を逃したのである。まとめサイトは、参加を自由にするものではなく、終了の合図だと言える。ネットにある言説の公共性とは、ネット特有のものなので物質的世界を反映していない。物質と情報が断絶された状態に不満を上げる声もある。もしこのままネットが物質や精神を反映しないのであれば、前時代と似たような帰結となる。
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 そして、「古典的な」「近代的な」「現代的な」「非情報な」の、それぞれ4つの全体性はサブカルのメタファーとしても読み取れる。古典的な全体性は『宇宙戦艦ヤマト』であり目的達成型。近代的な全体性は『新世紀エヴァンゲリオン』であり作品の中に収まりきらない、聖書的な多義的な解釈の拡散を許す型。現代的な全体性は統合的なエポックが喪失した00年代であり、萌え、エロゲー、801など分類名のみが彷徨う型。非情報的な全体性は情報が行き着くところまで行った先にある情報の限界の地平、情報と物質を相互に干渉させようとする身体的な欲求の型。
 およそ情報でやれることは現代的な水準で達成されていて、もう後はない。後は情報を使い、いかに身体的・生理的な変化を起こすかにある。すなわち文学はドラックであり、音楽は銀盤薬物。萌えは射精を起こすために使われ、ポルノは性的興奮を高める。泣きゲーム、鬱ゲームなど、もはや娯楽は身体的な変化を起こすために製造される。一度、特定のセクシャリティーに免疫ができると、体質が固定されてしまう。中毒性はそれほど高くないが、社会で生活していると娯楽との接触の機会が多いので反応しやすい環境にある。
 現代的な思考で編み出した、二重戦略はもちろん継承しなければならない。しかし継承する階層は必ずしも言語や情報の水準とは限らない。時には社会や物質の世界へと変化を起こし、再び語ることで二重性を編み出すこともある。
 流行に乗り遅れてしまったしまった"私"を救済する方法の一つが、東浩紀的なデータベースからの引用です。だけどデータベースからの引用は時間が静止しているので、やっぱり乗り遅れた自分が悔やまれるのです。その喪失した幽霊のように漂う"私"は、動物化とデータベースでは救うことができません。
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 ここである目的の為にいくつかの概念を提示します。〈パラレルワールドの他者〉〈言語が生まれて育つまでの過程〉〈流行と情報のズレを認識してしまうこと〉の3つです。
【パラレルワールドの他者】
 パラレルワールドの他者とは、自分と他者との関係性が脱着式の取り外しが可能な関係という世界観です。例えば、『ドラえもん、のび太の魔界大冒険』に置けるのび太と美夜子の関係や、『D.Gray-man』のブックマンの位置づけである。他者と関係を築こうにも、世界のあり方が他者との関係を強固なものとしてくれるのが必然ではないので、関係を強固にするための仕掛けが必要なのである。科学の世界の住人であるのび太が、魔法の世界の住人である美夜子を助ける必然性がない。(この節が誤認された決断主義である。)
【言語が生まれて育つまでの過程】
 まずは思念がある。思念が漂っているのである。次に思念に気づく者が現れる。思念に気付いた者は方法を編み出したり、作品を作ったり、概念を語ったりする。そしていよいよ言語化がなされる。言語化がなされて以降は、今まで漂っていた作品、思念、概念、方法などが一挙に、そのシニフィアンとして記されるワードに回収される。そしてワードが属性として貼り付けられたり、ワードを基点として特定のポイントに集約されたりする。次に回収されたシニフィエの群れは分類される、分類された後に様々な利用をされる。一例として物語化がある。物語化された対象は次に時間の逆流を始める。言語を獲得した時点を起点として、次々と過去の事例を参照として行き物語は歴史となっていく。こうやって最初にあった思念は言語の獲得を経て、歴史へと発展していくのである。一連の過程は、《萌え》《セカイ系》《ツンデレ》《・・・ですね、分かります》など、様々な場面で伺える。(この節がセカイ系を語ることの危うさである)
【流行と情報のズレを認識してしまうこと】
 (この項は私の感覚的なものです。)情報化社会になる前の流行と情報の関係は、まずは流行があり、その流行の中いるという感覚を保ちながら情報を得ていた。情報が流行の後追いをしていたのである。だから「自分はある時代区分の中にいる」という安心感が得れた。ところが情報化社会となり、情報の流れが激化すると「流行>情報」の図式は逆転し、「情報>流行」となってしまう。すると怒涛のように情報が押し寄せてくるので、今獲得している情報の鮮度が良いのか古いのかが分からず、絶えず不安にさらされる事となる。そして、自分が流行の中にいるという感覚が保てなくなり、「もしかしたら流行は終わっていて、今自分の触れている情報は古いものかも知れない」と心配してしまう。それが『動物化するポストモダン1』で示された、データベース化の負の側面である『郵便的不安たち』であり、その『郵便的不安たち』がさらに悪化して、凶暴凶悪化した暴走する郵便ポストの次次次次である。(この節が決断主義が時代遅れに感じてしまう理由である。)
 提示した3つの概念の目的は、『ゼロ年代の想像力』が、サブカルの物語を通じて社会や社会観の批評に失敗した理由を分析し、解体・再構築するためのツールである。結論を言ってしまうと『ゼロ年代の想像力』の、時間のシフトさせ方は単純すぎる。90年代から00年代への変化で起こった特殊な状況を考慮しないまま、90年代から00年代へと素朴に時間をシフトし論じている。なので潜在的な問題が未消化のまま話が進むので読後に違和を感じるのである。それは東浩紀のデータベースと呼ばれる概念を、静止したモデルにして論じてしまった事に起因している。(引用p36)情報の海として静的に存在するデータベースから、自分の欲望するとおりの情報を読み込んで「小さな物語」を自身で生成する。(引用終わり)。確かにデータベース論は無時間モデルとの相性がよい。しかし、ならばこそ無時間モデルに近いデータベース論は、90年代から00年代へと時間軸をシフトするだけでは、過去のものには出来ない。90年代から00年代へと時間軸をシフトする営みそのものが、データベースに回収されてしまうのである。
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 00年代を論じるためには三重の戦略を採らなければならない。三重の戦略を採るために、先ほど示した3つの概念をツールとして使います。そして3つの概念は、今という時代を"点在する私"のメタファーとして読み取れる。【パラレルワールドの他者】とは、ある世界観を認識している状態であり、言わば「設計の中にいる私」である。【言語が生まれて育つまでの過程】とは、自然に起きている現象を認識している状態であり、言わば「自然であろうとする私」である。【流行と情報のズレを認識してしまうこと】とは、自己認識そのものを疑い始めて宿命と決断との間で揺れ動く、言わば「自由を司る私」である。
 次に「設計の中にいる私」「自然であろうとする私」「自由を司る私」の、それぞれの特徴を説明する。
 設計の中にいる私は引用という作法を使うことができる。引用とは人々が作り上げたものを再び使うことなので設計に準ずる行為なのである。
 自然であろうとする私は設計の外側にいる状態であり観察者である。可能な限り対象との関わりを避け対象を客体化することで、場を再定義する設計者の立場である。
 自由を司る私とは、設計するか-設計に従うか、などを含めた、あらゆる選択肢の中に潜む、解離した自分-可能世界など、あらゆる場面での分断の中にありながらも、それでもなお自分の存在を確認しようとする自由意志そのものである。
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 ここで閲覧している方に疑問を入れたい。あなたは世界観や社会観をいだいているだろうか?中にはあると答える人もいるだろう。では、その世界観は他の人も抱いているのではないかと考えた事があるだろうか?中には考えたことのある人もいるだろう。同じ時代同じ環境にいれば似た思考になるのは当然とも言える。警戒すべきなのは、自分の抱いている世界観は「設計の中に私」の世界観である可能性だ。設計の中にいる限りは思考も含めて、設計者の意向どおりに動きがちな傾向にある。なので、"考えているつもりが考えさせられてるだけ"だったりするのだ。
 話を【言語が生まれて育つまでの過程】に引き取り、自然であろうとする私の立場からセカイ系を語ることの危うさを説明する。「セカイ系と称される作品群は90年代に多くあった」と語ることができる。ただし、《セカイ系》というワードが発生したのは、00年代以降である。実はこのセカイ系の称される作品群と、ワードの発生した時期との前後関係の食い違いが大問題となる。平凡に考えれば、「私たちは90年代を論じようとしている、その為に《セカイ系》というタームを使っている」と思っている。ところが実際に起きているのは逆で、《セカイ系》と呼ばれる何かが、ニンゲンに言語と観念を一致させるためのシーニュをさせようとしているのである。あるいはシーニュしたくなる設計の中に私たちはいるのである。こうなってくると、"言語を使ってセカイ系を考えているつもり"が、"言語に弄ばれたニンゲンがセカイ系をシーニュさせているだけ"となってしまう。
 次に話を【流行と情報のズレを認識してしまうこと】に引き取り、自由意志の観点から、"シーニュさせられているニンゲン"を考えてみる。実は90年代までだったら、思考と言語を一致させる行為であるシーニュは、それほど問題ではなかった。情報を得て思考をしている自分は、ある時代区分の中にいるという安心感があったからだ。ところが00年代は情報化社会となっていて、怒涛のように情報の波が押し寄せてくるので、セカイ系をシーニュしているのか、セカイ系にシーニュさせられているのかが、可視化されてしまっている。つまり意識したくなくても再帰性を自覚させられてしまうのである。もはや自分は宿命論的にGoogleやブログを通じてセカイ系へと繋がっているのか、セカイ系を論じようと決定してアクセスしているのか、自由意志の確認が出来なくなってくる。確認できない事の不安を払拭するために「もはや、セカイ系は時代遅れだ」と言い切る。言い切ることで自分は時代の先端にいると思い込むことができ、思い込むことでいつ流行が終わるのかと不安に脅えることなく、時代との一体感と安心感の中にいながら情報が享受できるように、自分を奮立たせているのである。
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 まとめるとこうだ。『ゼロ年代の想像力』は、90年代→00年代10年代へと単純に時間をシフトさせた。しかし00年代以降では情報化社会という新たなファクターが入ったので、70年代→80年代→90年代まで通じた、単純な時間のシフトが使えなくなっている。(もしも情報化社会になっていなければ、00年代は決断主義が支配していた日本になっていたかもしれない。)情報が可視化されてしまったので、決断主義という時代認識を獲得するより先に情報が通り過ぎていってしまう。
 顕著に表われているのがタグである。何かを論じないにしても、ある様相を伺うことができるタグの一覧を一目見てしまえば、何を論じていても恣意的な選択であることを否応なしに自覚させられてしまう。[セカイ系][決断主義][初音ミク][魔法少女][妹][ゼロアカ][孕ませ][反復ループ][子作りしましょ♪][自殺]。しかも書籍と違って、ネットはクリックひとつや検索するだけでアクセスできる。例えば、エロゲー・漫画・小説では、妊娠・孕む・優良な遺伝子Getと言ったモチーフの作品群がある、だけど「孕ませもの」はあまり批評されていない。例えば、乙女ゲームと言われるジャンルがある。少女漫画研究家の宮台先生としてはノーマークでは不味いはずだ。コミックブレイド的な感性である異世界を舞台とした少女漫画群も批評されていない。批評されていないのだったら批評すればいいと言うことになる、しかし批評されていないジャンルなど無数にあり、しかもその事は検索を覗くだけで、どれだけ多岐に渡るのかが見えてしまうのである。全てを評論するのは困難だ。かといって90年代のエヴァンゲリオンまで通じた、時代のエポックを取り出して論じるやり方も、情報化した社会では統合のシンボルになる作品が不在なので無理だ。すなわち全体へとアクセスする評論の扉はタグの一覧くらいなのである。
 まとめるとこうだ。私たちは世界観を認識する。その世界観は設計されたデータベースという抽象的な現象的概念に吸収される。そして私たちはデータベースを弄る設計者となるか、世界観と向き合う住人となるか選択を迫られ、さらに選択肢と決定の関係もが、設計者と住人との関係との構図と重なり、それでもなおも自由を求める意志の示しである。
 そして、本テクストは4つを反復する事で形成されたものであり、基本的には同じことの繰り返しの時間の静止したモデルの中にある。すなわち、設計、現象、自由、脱出、である。
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 さてここで問題提起をしたい。それは「大きな物語」と「小さな物語」の行方である。大きな物語とは簡単に言ってしまえば、イデオロギーや宗教であり近代の産物である。小さな物語とは大量生産大量消費社会となった、ポストモダンの生んだ物語のあり方である。
 「知識人は終焉し、大きな物語も終焉を迎えており、人々は小さな物語と戯れる。」という風に一見すると見える。がしかし、その小さな物語とはなにかが、物語の行方を考える上で大問題となるのだ。東浩紀は、小さな物語はデータベースから引用することで組み立てられるもの、だと考えた。その際に使われた《データベース》というタームは抽象的なものであり、対象となっている物が限定されていない。人間の記憶とも言えるし、記憶媒体、自然、書物、アカシックレコードなど解釈は多義にする事が可能だ。では、もしも《データベース》が、設計された人工物を指していたとしたら、どうだろう。そのデータベースから引き出された小さな物語も、小さな物語の中で過ごす人々も、設計者の意向どおりと言うことになり、住人達に自由意志は存在しない事となる。
 厄介なことは、その小さな物語の中で過ごす人々の中には抽象的なものである《データベース》が、(作為で変えられる)人口のものか・(変更不可能な)天然のものか、の分別が付けられない人が定期的に発生してしまう事だ。代表的なフレーズの例として「いつまでも遊んでないで現実を直視しよう」「現実とフィクションの区別が付かなくなる」がある。
 ところがその場合の現実というのが、法律を守る、働く、受験、就職、起業など、どれも人が設計したものに過ぎなかったりする。労働は企業の枠に納まり、起業は制度の枠内で行われる。つまり人工物なのに、天然物であるかのように思い込み、その思い込んだ対象を現実にカテゴライズしてしまうのである。現実と思い込んでいる観念も、実は生成された小さな物語や大きな物語の残留思念に過ぎなかったりするのだ。
 設計されたものを自然と思い込んだり、設計の根幹にアクセス出来なかったり、思考のパターンさえも規定されていたり、イデオロギーを現実だと信じ込んだりする。小さな物語にせよ大きな物語にせよ、作為にせよ偶然にせよ、「読める物語」の影として「読めない物語」が発生しているのである。物語として認識できないシャドウがあるのだ。あるいは私たち自身も、思考している対象が物語なのだと認識するを忘れて、断片の一部と化し、無自覚に役割を演じさせられている可能性もあるので警戒しなければならない。Googleもブログも炎上も、制御可能なデータベースなのだ。認識するのを忘れてしまった先にある、物語ならざるデータベース的な構築物に触れることで、私たちは「真の決断主義者」になれるのである。あるいは再帰的に世界観を認識することで改めて自分を納得させる、物語ならざるデータベース的な自然物に触れることで、私たちは「真のセカイ」なるものの断片になる事ができる。
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 そして、「読める物語」と「読めない物語」は、意味を探し求める現代人のメタファーとして読み取れる。私たちは物語の影を追うためには二重の戦略を採らなければならない。
 認識されている物語の中にいる人々は、本人の意志に関係なく再帰的な選択を迫られてしまう。対して、認識されていない物語の中にいる人々は、人工物の中にいるにも関わらず自分の意志で決定したと信じ込んでいる。
 人工物の中にいる人々は、意味のある生活が営める代わりに仮想的な決断者にすぎない。対して人工物に自覚的な人々は、仮想的な決断者にならずに済む代わりに意味のないセカイの設計者に従属することとなる。
 そして現代人は、意味はないが設計者でいられる自分と、意味はあるが仮想の決断者に従属する自分との間で揺れ動いている。その揺れ動く狭間にあるのが物語の影であり、物語の影こその正体こそがZ・・・・・・・・・。
 と、ここで唐突に解説は遮断される。遮断されるのには理由がある。前の節で書いたことだが、このテクストは、設計、現象、自由、脱出を繰り返しているだけの無時間な中にいる。だから「物語の影」とは何を示しているのかが、察しが付いてしまうのだ。"設計者と住人との対峙の中で揺れ動く私"が示されれば、「物語の影」の正体は「自由意志」だと言おうとしてるのが見えてきてしまう。だからこそ「自由意志」という発想は既に規定されたものに過ぎないので、その発想から脱出しなければならない。その為には物語の影の正体は保留にする必要がある。私たちが取るべき二重戦略は、それ自体が二重戦略をしなければならない。
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 〈分断されたセカイと私〉は、〈メディアと主体〉との関係を示す一つのメタファーである。私たちは幾重にも折り重なる認識を一つに回収する戦略を採らなければならない。
 「サブカルは社会を示しており、文化と社会は相互に干渉しあっている」と考えることも、「サブカルは若者が戯れている遊び場に過ぎず、現実とは別のもの」と考えることも、いずれも解離された状態には違いない。いくら生活の中にサブカルが浸透している事を説いても、それが直接的にサブカルと現実との相補性を示すことに繋がるとは限らないのである。同様に、娯楽を娯楽だと割り切ったとしても、割り切る人々は人間の営みが娯楽も含んだものであることを疑わない。
 同様のことは、バブルや金融をテーマにするジャーナリストにも言える。記者は、それが誰の得になるのかを論理的に考えながら行動する。ところがバブルやネズミ講ではジャーナリストのような存在は、予め設計の中に折り込んでいるのだ。バブルは大きく膨れ上がり、必ず最後には弾ける。その弾けるまで過程で搾取する者される者に分かれる。そしてジャーナリストはバブルが大きく育つまでの過程に加担してるのである。バブルが弾けてから以降も続く「誰が得したのか?」を探る行動作法は、政治家の「悪いのは誰だ?」の作法と重なってしまい、記者と政治家の行動が同じになる。
 記者はチェックするのが仕事である。モダンな権力ならばリヴァイアサン的な大ボスをチェックするだけで済むが、ポストモダン状況の権力は散らばってしまう。それなのにわざわざチェックと言う行為をすると言うことは、チェックする行為に付随してモダン的な権力を召還してしまうのである。またジャーナリスティックな振る舞いが可視化されてしまうので、記者がプレイヤーとなってしまう。
 金融とは情報である。なので単純に情報を扱うだけでは金融業の一部になってしまう。ジャーナリストは情報ではなく報道をしなければならない。右から左に情報を流すのではなく、私たちの道標になる必要がある。設計の中で権力をチェックするのではなく、設計そのものを提示し続けることが、権力の先手を打つことになる。
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 さて、改めて確認すると、このテクストは『ゼロ年代の想像力』の読後感の違和を考察している。そこで考察するのに有効なツールが【神話学】である。結論を先にいうと00年代の状況は、19世紀〜20世紀に起きた、【解釈する神話学】から【構造主義的な神話学】へのシフトと似ているのである。ところが『ゼロ年代の想像力』は80年代までに通用した【解釈する神話学】を採用してしまったのである。
 そもそも考えてみれば、ある作品が現実の社会で起こっている現象を示していると考えるのは、あまりにも短絡的な思考である。短絡的過ぎるからサブカルと社会批評を繋げて論じる行為に奇妙な違和を感じるのである。そのあまりにも短絡的な解釈のあり方は19世紀の神話学でも行われた。世界中のお話をフィールドワークでかき集めて、学者たちが徹底的に解釈したのである。そして19世紀の短絡的な神話の解釈を批判したのが、20世紀の構造主義である。解釈の仕方のあり方が構造に規定されていると言うのだ。文明人と未開人、科学と迷信、こちら側とあちら側など、二分法で考えるのではなく、文明人であっても未知のものに接したときは、神話的な言葉で解説を試みるのである。神話の短絡的な解釈群も、解釈の仕方そのものが未開人と同じ神話的な発想なのだ。
 サブカルと社会批評を短絡して結びつける方法は、90年代以前では時代環境が支えていたので通用した。作品、制作者、観客、二次的な派生の4つは、それぞれが共同性の中にあったので、観客である社会の構成員とオブジェである作品を結びつけるだけで済んだのだ。だからサブカルを論じるだけでも社会批評になれた。ところが、東浩紀や宮台真司が総論的に語るように、すでに90年代では文化は島宇宙化していて人々は住み分けていた、なので全体性の透明度が喪失して見渡しにくくなっているのだ。各島宇宙をサヴァイブして、各作品からデータを引用して社会を批評しても、もはやサブカルを論じている事にならない。"サブカルを論じることで社会を批評する"のではなく、"社会を批評するためにサブカルから引用している"だけとなる。つまりサブカルから引用する必要性があまりないのである。こうなってくると文化と社会との関係性は希薄になり、ますます批評という行為がし難くなる。
 どの作品を論じても全体性には繋がっていないし、各作品を寄せ集めて全体を再構成して社会を語っても、それでは各作品たちに〈なぜその作品でなければならなかったか?〉と疑念が生じてしまい、作品の固有名が喪失するのである。
 各作品の中にある同一の場面を並べて「時代は決断主義だ」と考えてはみても、作品と時代との一体性が保てていなければ・・・・、つまり作品の中の思考パターンと観客たちの思考パターンとが解離したままでは、観客たちは「このミュージカルの登場人物は決断主義者らしい」、あるいは「この制作者は決断主義者を描こうとしているようだ」と対象を客体化して終了である。観客と舞台は一致はしないまま解離したままだ。

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 それでは、【解釈する神話学】と【構造主義的な神話学】とは何かを、物語とは何かを考えながら解説していく。
 私たちは社会を批評する際においては、固有名を失った剥き出しの物語にさらけ出されている。それは作品としての《物語・ストーリー》ではなく、方法論としての《物語・ナラトロジー》である。
 私たちは作品を批評する際においては、批評そのものがコミュニケーションであり、あるいは身体的・生理的な変化を起こすための薬物的なツールとして機能している。アニメ、マンガ、ゲーム、映画、ノベル、キャラクター、ジャンルなどの作品群自身は、その作品の本質からも疎外されてしまったのである。方法と作品とが一致できないのだ。
 端的に言おう、私はライトノベルを読んだ事がない。そこにある批評を読んでも、ちっとも作品を読んだ事がないので分からないのである、なのに批評は批評として社会の方を向きながら勝手に進行する。にも拘わらず批評は読めてしまう、東浩紀などに代表される批評家の批評漁りはしてきたので時代を追うことだけは出来たと思う。批評家たちの批評からは、作品としての物語と方法論としての物語が、解離していることが伺える。私は作品を享受することは出来なかった。だけどネット上で作品のムードだけは味わう事ができた。なので情報の波に、時代の感性が狂わされずに済んだのではないかと勝手に思っている。
 エヴァンゲリオンを最後に作品がシンボルとして機能した時代は終焉を迎えたのである。これからは剥き出しの方法論と向き合わなければならない。70年代、80年代、90年代はエポックとなった作品が、ジャンルで隔てられていたとしても確かにあった。しかし00年代では一つも出てこない、10年代でも出てこないだろう。そこで00年代のエポックは方法論になったと仮定して、私は00年代のエポックとして「タグ」と「検索エンジン」を上げたい。とりあえずの全体を見通しやすいのはタグであり、部分を深く掘り下げるのには検索エンジン(検索窓ではない)なのである。10年代の物語も、きっと作品から離れ方法論の中を彷徨うだろう。おそらく今後はしばらく物語は方法論になってしまうと主観的には思う。
 すなわち、「作品としての物語」とは【解釈する神話学】であり、「方法論としての物語」とは【構造主義的な神話学】である。解釈のあり方が一様な状態である社会ならば、前提が共有されているので物語は作品として認識される。よって解釈する行為は、思考法を含めて社会の一部に取り込まれる。しかし解釈の仕方が多様になってくると、解釈をする行為は社会に取り込まれないので、その思考法が社会から疎外されてしまい、思考する行為が演技的になってしまうのだ。思考のあり方が見えてしまう状況は、構造主義的な環境に置かれている20世紀の神話学の状態と同じなのである。
 解釈する批評家たちは思考法そのものが読者に伝わっているので、作品を知らなくても批評は読めるのである。そして作品は、作品の固有名から疎外されてしまうのである。
 ロックマン9、初音ミク、そしてゼロアカ道場・・・。いずれも作品でありながら、むしろ作品を構成するためのプラットとして機能している。作品と方法論の境界線が曖昧になったことで、人々は《物語》を使いながら演奏するのである。
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 改めて触れておくが、このテクストはサブカルチャーの考察であり、サブカルの中でもアニメを軸に進めている。
●前の節でアニメなどの物語は作品としての体を成さなくなり、むき出しの方法論となったと指摘した。では70年代〜90年代までは作品として認識されていた対象の、根底にある方法論とは何だったのかを考えてみよう。すなわち作品を支えている現象である。
◆まずは各年代の作品を上げる必要があるのだが、その作品を取り上げる行為が何らかの思考パターンになっているので注意しなければならない。
●私は今、『A.宇宙戦艦ヤマト』『B.うる星やつら』『C.エヴァンゲリオン』の3つを、それぞれA.70年代、B.80年代、C.90年代の3つの時代区分に対応させ、それぞれを〈A.目的を遂行する物語〉〈B.各キャラクターのオムニバス形式〉〈C.目的は一応あるが目的の強度がないので自意識に閉じていく〉の3つに対応させようとした。そして、Aには「目的を遂行するために、登場人物たちは目的に適応した振る舞いをする。70年代も追いつけ追い越せという目的意識が根強かった。」とラベルを貼りつけ、Bには「もはや目的の達成しようとする欲求は衰え、登場人物たちが望みどおりには成らないけれども自分らしさを求めている。80年代も個性を欲しがった時代だった。」とラベルを貼り、「個性のあり方さえも形式化されてしまったので、自分らしさと生きる意味の一致が果たせなくなり論理的な思考で強引に意味と生を繋ごうとして失敗した。90年代も心理学や社会学などロジカルな物が流行った。」とラベルを貼り付ける。さらに「70年代は目的を果たそうとする欲求が暴走してあさま山荘事件が起き、90年代は論理的思考が暴走してオウム真理教の暴走を起こした。」などと考えることが出来る。
◆では00年代とは何かというと、上で示した70〜90年代を説明しようとするラベル貼りの思考法そのものが00年代的なのである。今までは「ある年代は、こうである」とラベルを貼れば、そのラベルが正しいのか誤っているのか検証するよりも前にラベルの方が認識として貼り付いてしまうので、事実はどうあれラベルが現実認識として機能し、人々に社会観を抱かせてくれた。
●順当な解説をするのなら、「70年代から90年代にかけて、作品と登場キャラクターとの関係性の強度は解体していった。」「70年代では登場人物と作品との関係は強固だったので、登場人物の存在は作品にとって必須だった。」「80年代ではその作品にその登場キャラクターが出る必然性が消えたので、作品と登場キャラクターとの関係を繋ぐのは作品名の看板だけになる。」「そして90年代では、作品と登場キャラクターとの関係性はまったくなくなり、まったく関係のない各パーツを繋いで作品の体にする為に、思考を捏ね繰り回す行為を後付けとしてやるしかなかった。だから90年代の作品群の話はどれも論理的な思考に基づいている」と流れを説明した後に「そして、いよいよ00年代になると論理的な思考すらも通用しなくなるのである。論理的思考そのものが方法というパーツになってしまったのだ。剥き出しとなった各パーツを人々が繋いで遊ぶだけであり、作品と登場キャラクターとの関連性は申し訳程度である。ネット環境も整備されたので各パーツを集めるのも簡単になった。私たちは作品を楽器として利用し戯れているのである。」と考えることができる。
◆しかしだ、警戒すべきなのは、対象となる70〜90年代までの解説方法が、まさに00年代を説明するためにラベルを貼り付けて行為であり、もはや私の解説方法そのものが00年代的な発想になっているに過ぎないのである。すなわち私は00年代を説明するために70〜90年代にラベルを貼っているだけで、なにも70〜90年代の解説が出来ていない。ただ、70〜90年代と言う各パーツを繋ぎ合わせ、楽器を演奏するかのように戯れていただけなのである。
●同様なことは『ゼロ年代の想像力』にも言える。『ゼロ年代の想像力』もまったく『仮面ライダー』や『デスノート』や各ドラマの批評は出来ていない。作品たちは組曲的な論理である『決断主義』を形成するために各パーツとして使用されているのである。そして『ゼロ年代の想像力』に同意することは、組曲『ゼロ年代の想像力』の奏でる音色に酔いしれているだけであり、社会と作品は共に批評できていない状態となってしまう。
◆すなわちラベルの貼り付け行為が剥き出しの形で認識されてしまい、ラベル貼りが統合としての機能を果たせなくなったので、作品と方法論と登場キャラクターとが一致しないのである。
 なお、作品、方法論、登場キャラクター、の3つは、それぞれがメタファーとして、このテクストの4つの反復に対応している。作品とは設計であり、方法論は現象であり、登場キャラクターは?である。「登場キャラクター」とは「観客」とも読み替えられ、作品の内部にして「各パーツ」と読んだり、作品の外部にして「二次利用」とも読める。内外の連関に対応しているのは自由と脱出である。
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 前節で〈作品〉の楽器的な性質を、思考のパターンを確認しながら言及した。次に剥き出しとなってしまった方法論の行方を考えてみたい。
 方法が剥き出しとなってしまった00年代の時代状況は、アニメ、テレビ、特撮の黎明期である昭和初期の時代状況に重ねることができる。すなわち00年代は実験的なことをするのがまずは先であり、どんなプラットやツールがあるのか確認作業をする時代なのである。10年代でも暫くはツールやプラットの作成が続くと予想される。エポックとなる作品が出てくるのはツールが社会的にも認知され、(使いこなせるかは別として)みなが手軽に使えるように、社会に馴染んできてからである。なので著作権法、教育システム、投稿サイト、VOCALOIDなどの情報化社会に対応したインフラやツールが整い、かつ運用もできる様になった時に、各業界にエポックとなる作品が登場するだろう。そして再び作品と方法論との一致が果たされるのである。それまでは暫くは〈作品〉としての物語は冬の時代に入る。
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 繰り返すが、このテクストは設計、現象、自由、脱出の4つが、それぞれがメタファーとして重なり合いながらも反復されているだけである。
 どうしてマル激の炎上の回に書いたか? それはこの文章を書いたキッカケとなったのが番組中に触れられた全体性についての考察だからです。気軽にサラサラと書いていたら、とんでもない量になってしまいました。すみません。(ここで終わりのはずだったのだけど、まだまだ続けちゃいます。本当にすみません。)
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 それでは、〈萌えのリテラシーから読みとく感情の働き方〉から始め、〈決断主義が生まれた理由〉を経て、〈サブカルの島宇宙化が発生する過程〉に繋ぎ、〈誤配とサヴァイブは同じ現象〉であることを、連関した流れとして解いて行く。
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 さて、物語が〈方法論〉と〈作品〉とに分離してしまったと、【神話学】の節で述べた。そして●◆の節では物語の楽器的な性質が、分離した各パーツを繋ぎ合せていると述べた。
 【神話学】と●◆は、何らかのメタファーを示していると読み取れる。そのメタファーを読み解くために私たちは、一致した事象をわざわざ分離して再び幾重にも繋げる、多重戦略を採らなければならない。なお多重戦略をするための始まりは一つなので拡散の数は規定されない。
 《萌え》がどこにあるのか考えてみよう。東浩紀の『動物化するポストモダン』では、萌えは要素として扱われており客体的な対象となっている。一方でネットでは萌えは属性として扱われており主体的な対象となっている。意見と実際とには食い違いがある。すなわち萌えとは主体にあるのではなく、客体にあるのでもない、主体と客体とが一致した際に、得られる・発生する爆発的な感情の高まりのことである。萌えは客体として在るだけでは常に分離した虚部的な状態だが、時折やってくる主体と一致して融合することで実部的な萌えとなる。なお《萌え》の解説は一致と不一致を示すためのメタファーにすぎないので注意していただきたい。
 次にセカイ系とは何かを考えてみよう。セカイ系とは物語の類型の一つであり構造なので客体的な対象であり抽出ができる。客体化ができる点では萌えとは違う。では逆に、セカイ系はどこに分離が起きているのだろうか。それはセカイ系を好むか好まないかの趣向にある。要するには萌えと同じ構図なのだが、萌えは文字だけではなくピクチャや音声でも起こりえる現象なのに対して、セカイ系は物語の構造のみで起こる現象なので、萌えと同じ構図として認識されにくいのである。有り体に言ってしまえば、セカイ系が好きだと思えばセカイ系なのである。
 対象と主体が一致した際に得られる感情の働き方が心地よいものであれば、人は対象を集めた分類法の枠組みに吸引されていくのである。その吸引されていく効果が、島宇宙の形成である。
 決断主義を語れるのは、決断主義として分類することが可能な作品群が在り、かつ決断主義に分類されている作品群が心地よいと思える人々がいるからである。
 戦後民主主義とマンガ表現論があるのは、マンガ表現論をする人々がいて、マンガ表現論が批評として成立しているから、マンガ表現論が島宇宙として確立しているのである。
 作家性を重視するのは、作家の内面と生き方に憧れて、人々が作家を見つめて考えるから、人間は動こうとするのである。
 以下同様に、分類と主体が一致した際に島宇宙は形成されていく。ここでもう一度、話を、セカイ系・決断主義・マンガ表現論といった論考から、感情である《萌え》に戻してみる。
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 なにも一致するのは論考だけではないのである。イラストと主体が一致することだってあり得る。そして一致した際には様々な身体的な変化が起こり、場合によっては射精や涙になる。
 問題なのは、映画、ゲーム、ドラマ、音楽などの批評では情感を無視している事にある。たしかに言語化してもしょうがない側面もあるので仕方がないかも知れない。端的に言ってしまえばエロゲーがエロゲーなのは、エロイCGが挿絵として導入されているからだ。しかしエロゲー批評では画像の批評はされない。されるのはもっぱらテクストだけである。
 ここで「テクストにのみ言及してきたのは評論家の怠慢だ!」と言うつもりはまったくない。仮にあったとしても「テクストにのみ言及してきたのは評論家の怠慢だ!」と叫ぶことで得られるある種の感情に酔いしれて悦に浸れるだけである(正確にはイラストに対して記号論として言及はしているが、テキストと比較すると圧倒的に少量だと思われる)。注目すべきなのは、なぜ批評家たちはエロゲーのテクストの言及ばかりをしてきたのかである。やってきた行為の意義を問うことはせず、結果のみを観察する限りはエロゲーという作品を解体して、作品の手法を使った二次利用をしているのみとなる。
 つまりこう考えられる、批評家は作品を批評しているように見えて、実は作品を構成する部分的なパーツである構造体を抽出して仲間内でワイワイ戯れているのである。果たしてそこに主体性があると言えるのか? 何かを考えているようで、構造体に考えさせられているだけだとしたら、思考しているようで思考していない人々が社会の中を溢れる事となる。そしてネット時代で起きるのは「1億総クリエーター」ではなく、「99のゾンビと、1の設計者(作業者)」となるだろう。設計的ファシズムの誕生である。
 切り取られたパーツの方に注目すると、各パーツはシステム論的には要素となっているので死んでいるはずなのだが、別の島宇宙に到着すればパーツは別の駆動原理で動きはじめる事となる。《各パーツ》とは抽象的な言葉であり、人間も動物も方法論もすべてが含まれる。
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 では〈決断主義が生まれた理由〉を考えてみる。決断主義が生まれた過程は、宇野常寛がある作品群を批評していないのは批評家の怠慢だと、批判したことで生まれた言葉である。改めて考えてみれば決断主義に限らず、思念や束になっていない作品群は沢山ある。ただ分類する行為と批評が追いつかないのである。だから、名称を獲得していない分類が沢山あるのだ。《セカイ系》や《萌え》は自然の中で名称を獲得して浸透してきたが、名称が獲得できなかった作品を批評しようと思うと、批評家が人為的に名称を与える必要がある。そこで生まれてきた差異を一致させるための名付け行為が《決断主義》なのである。
 察しの方もいるだろうが、名称不在の束は概念として無数にある。しかしネットでは言語化されたものしか発掘できないので、概念だけの対象は在っても可視化できないのである。概念を言語化して可視化する行為は、思考的な営みだと言えなくもない。すなわち可視化して上げるのは設計者なのである。宇野常寛の功績は二重に意味がある、まずは決断主義という分類がある事を知らせてくれたこと。もう一つは名称を与える行為によって人々は可視化できるのだと知らせてくれたことである。なおこれから決断主義を論じる人は警戒しなければならない。なぜならセカイ系と同じく決断主義も、《決断主義》というタームシーニュしている様に思えて、《決断主義》というタームにシーニュさせられているニンゲンになってしまう可能性があるからだ。検索してブログを読んでいっても似たような思考をした人とゾロゾロ遭遇するだろう。
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 次に〈誤配とサヴァイブは同じ現象〉を考える。簡単に要約すれば、サヴァイブとは小さな物語同士の衝突であり、誤配とは間違って伝達されてしまうことだ。
 とりあえず漫画に登場したアイテムを誤配のメタファーとして使う。それはあの〈デスノート〉だ。デスノートは、ノートに名前を書くと書かれた対象は死んでしまうという物。注目すべきなのは人間が使えば人殺しの道具だけど、死神にとっては寿命を延ばすために必要なアイテムであることです。つまり所有者によってアイテムの機能が変わるのである。
 そして〈デスノート〉のメタファーはシステム論的にも置き換えられる。ある要素はどのシステムに所属するかによって効果が変わるのである。肉は生きている生物にとっては体を構成する一部であり、死んだ肉は他の生物の食料となるように、属し方によって有り様が変わってくるのである。
 その属し方によって有り様が変わってくるのは、まさにデリダ的な言語の二重所属であり翻訳不可能性なのである。「デスノート」は作品名でもあり、作品中に登場するアイテムである。「読者によって解釈は変わる」ことは、読み手によって決断主義にもギャグにもなるし。「所有者によって機能は変わる」ことは、死神が使うか人間が使うかでも機能が変わる。
 (次には同じ思考パターンをあるメタファーになぞらえ連続して繰り返す。)そこで気になるのは、「対象となっているパーツがどうやって移動しているか」である。すなわち「誤配や宅配とはどうやって起こっているのか」である。すなわち「あるシステム系から別のシステム系へとどうやって移行しているかと、移行した瞬間のパーツの作用の変化の仕方」である。すなわち「島宇宙と島宇宙とを相互につなぐメカニズムには何があるのか」である。
 誤配は意図的に起こすこともあれば偶然に起きてしまう事もある、すなわち炎上が起きるのにも故意もあれば偶然もある。
 誤配の事例として「児童ポルノ規制に、二次元の創作物が含まれるか?」の論争がある。現実として、官能小説、AV、エロ漫画、エロゲーなどのポルノ系を享受したからといって現実と虚構の区別が付かなくなってパッパラパーになるという発想が本当にあるとは、私の主観としても俄かに信じがたい。現実と虚構の区別が付かないという発想は、「『吾輩は猫である』を読むと自分を猫だと思い込んだり、猫がしゃべると思ってしまうので、小説は禁止にすべきだ。」と言うくらい笑えてしまうのである。がしかし、『吾輩は猫である』の例も場の設定が備わっていて、文化的な背景と言語の構造が一致していないと通じないのである。その逆に、文化的な背景と言語の構造を不一致にさせてやれば誤配やサヴァイブになるのである。その不一致の規模が小さければ誤配となり、不一致の規模が大きければ小さな物語同士の衝突となる。
 まとめるとこうだ、誤配もサヴァイブも不一致であることには変わりなく、不一致は作為的行われることもあれば、偶発的に起きることもある。
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 ただし東浩紀の考え方は、宇野常寛よりも練られている。『存在論的、郵便的』に思考を続けて、さらにさらに脱出するのなら、宅配も可視化も投函もしなかった漂っている手紙について、だとも考えられるのだ。誤配やサヴァイブの引き起こす不一致は不一致であっても、また別のシステムとして機能しているのである。ところが不一致には接触もしなかった不一致もあるのだ。
 多元的に漂う各パーツたちが同一化するまでの現象には取りこぼしがある。その取りこぼした感じと、一致する心地よさを同時に提供するのが、テレビ的なメディアである。ここで言うテレビ的メディアとは一方的に情報を流し場を定義するメディアの総称と考えてもらえばいい。該当するのは同人誌や二次創作を喚起させる、週刊誌、2ch、テレビである。聖書や萌えなどは分離したり一致したりして変化を繰り返す効果として現れている。
 テレビ的メディアとは、誤配と取りこぼしと届いた手紙とが同時に行われる、めちゃくちゃなメディアなのである。基本軸としてあるのは作品の持っている薬物的効用である。作品の観客になった時に起きる身体的な反応のみが、宅配で起きている一致なのだ。
 この取りこぼし・誤配・届いた手紙を巧みに利用しているのがライトノベルである。ライトノベルなどでイラストが使われる理由は、この様に論考をしている間のモードと、イラストを閲覧している際のモードが違いを利用して、頭の思考があるモードになった際に無理やり別のモードに移行させて不一致の感情を味合わせることにある。するとただ単にイラストを見たときよりもより効果的に感情を高まらせてくれるのだ。これがメディアをカクテルする効果である。
 まとめるとテレビ的なメディアは、誤配と取りこぼしと届いた手紙をごちゃ混ぜにやっている。もう少しレベルを落とした抽象的な言葉を使うと、テレビは概念、単語、行為、構造などがバラバラのミキサー状態で提供しているので、手紙が届いたり誤配されたり取りこぼしの分を突っ込んだりと愉快な気持ちにさせてくれる。そして薬物的な効果が発揮されるのである。
 カクテルする効果は画像掲示板にもある。掲示板ではzip(zipは圧縮ファイルの拡張子のこと)でまとめた画像が交換されている。ニコニコ動画でもアップロードされている。圧縮ファイルの中にジャンルごとにまとめられたエロ画像が盛りだくさんなのである。同じ原画家が描いた画像集よりも、ジャンルごとに区分けされ様々な原画家が描いたイラストがまとめられたエロzipファイルの方が、カクテル的な効果により萌えの精度が高まるのである。
 こういったカクテル的な思考は、単語にも当てはめられる。例えば、「東浩紀はリバタリアンで宮台はリベラリストと言うことに公共の場ではなっている。」と前振りをして「この《リバタリアン》という単語が《ジャイアン》に似ているのだ。」と定義を設定する事で、ある予感がするのである。「だから、リバタリアンはジャイアンを連想させるので暴力者のイメージがあり、○○アンと最後にアンが付ける行為に、人類は普遍的に暴力的なイメージに沸くのではないか?」と妄想できる。「同様に《リベラリスト》とは《オナニスト》と言葉が似ている。リベラリストは多様性を認めるのだから、オナニストも多様なオナニーを試案しているのではないだろうか。」と書いてある予感をさせておく、そして「リベラリスト宮台ならぬ、オナニスト宮台は、たしかにオナニーをしているように見えなくもない。」「しかし宮台のオナニーは安倍のオナニーよりも美しいのである。だから視聴者を引き付けているのだ。安倍のオナニーが汚かったのは《リベラリスト》ではなかったからだ。美しいオナニーは《オナニスト》と《リベラリスト》の一致が果たせた際にのみ得られる効果である」などと、デタラメな解釈をすることも可能なのだ。こうした混合形式が記号のカクテルな効果である。
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 すっかり忘れていたが、このテクストは一応『ゼロ年代の想像力』の違和感を、マル激の『炎上』の回に投稿しているのである。つまり両者の話をそれなりに繋げなければならないのだ。で、『ゼロ年代の想像力』の宇野常寛はどこにコミットしているのでもなく、何を代表しているのでもない。ただテレビドラマや特撮の話がされていなかったのでしただけのようだ。
 その振る舞いは、東浩紀が思想界からオタク界にやってきたのと同じ振る舞いなのであり、別の世界への殴り込みだ。その殴り込みというのが比喩的に言えば《炎上》のことなのである。炎上は衝突で起きるのだ。そして炎上は作為でも偶発でも起きる。
 またもや繰り返しておくが、このテクストは設計、現象、自由、脱出の4つが分離したり一致したりしながら反復しているだけである。4つの反復はメタファーとして読み替えられる、すなわち集約、衝突、作為、恐怖の4つが比喩として表現され反復されているのである。
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 記号のカクテルな効果を批判してシーニュのあり方を限定するのが、未だに帝国主義をやっている理系論壇である。なぜ「理系論壇」なのかというと、論壇内で起きている議論はなにも科学的ではなく、むしろ科学を聖域化しようと宗教的な振る舞いをしているから「理系」というあやふやな単語を使うのが適切だと思うのである。そして自然科学的な発想をそのまま、あるいは応用して教育やリテラシーのあり方を説いているのだ。有名なのが『水からの伝言』に対する『水からの伝言を信じないでください』批判である。
 「水に"ありがとう"と言ってから凍らせると、奇麗な結晶ができる」という内容を批判するものであり、科学的な観点と、道徳的な観点の両面から批判しているのである。
 しかしこういった批判は、道徳主義の力を借りて科学万能主義を延命させようとする内容である。科学は万能だと錯覚した人に対して、道徳という別の解を示すことで、世界のあり方を「科学とそれ以外」に二分しているにすぎない。そして「それ以外」を道徳に限定しているのは問題がある。
 率直に言ってしまえば《"ありがとう"というと、水はきれいな結晶になって凍る》というのは、そのフレーズ自体が心地よいのであって、くだくだ批判するようものではない。あるのは純粋な快楽そのものである。
 そもそも論から言うと《物理学》とは、自然科学の中でも特殊な位置づけにある。科学なのだけど科学らしくないのだ。物質と言語をつなぐのが大好きな人がやる学問であり、扱う対象が漠然としているので宗教じみている。量子力学、相対性理論、力学、天文学と言ったように専門を限定すれば科学らしくはなる、しかし総合としての《物理学》は中心が空白なので科学ではない。そして若い人は騙されたまま突っ走るのである。さらに厄介なのは物理学を科学だと信じ込ませる言説には、他の言論と違って解毒させようとする論客がいないのである。信じたままの人はそのまま放置なのだ。
 物理学は未知の領域があまりにも多すぎる学問なのである。物質である事は明確なのだけど、どういう法則が働いているのか分からない領域が無数にあるし、その逆に法則があるのは明確なのだけど物質との関連性が未知の領域なのも無数にある。そして一部の物理学者は言語と物質との結びつきが堪らなく快感であり、宇宙とか法則を発見した際に大喜びするのである。だがしかし言語と物質の結びつきは事実出なければ許さないというのは我侭なだけである。事実でなかろうと《瞳の引力》と言ってなにが悪いのだろう。「引力は電磁気力と重力の間で働く力だ」と批判するのは言語のあり方を限定したがる趣向的な感情に過ぎない。
 そこで信じようが信じまいが問題ではない。仮に信じたとしても《"ありがとう"というと、水はきれいな結晶になって凍る》という言葉を読むと、「まるでそれが現実に起きるんじゃないかと思えるくらい説得力と魅力に満ちたフレーズだ」というだけの事であり、信じる人には信じさせておけばいいのだ。
 もし信じるのが問題なのだとしても、道徳やら科学として批判するのは思想的なバイアスがかかっていて、バイアスがかかった批判である事自体が問題だ。「心地よいフレーズを聞けば、真実だと思える感情が得られるんです。だから詐欺には気をつけましょう。」とか、「言葉には感情を変化させる作用があるのです。例え嘘話だったとしても人を説得をするのには意味があるのではないか。」とか、いくらでも話の持って行き方はある訳で、ある限定したシーニュに話を回収するのは理系思想の帝国主義的な野望の表われである。
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 分離と一致を繰り返す情報空間では様々に点在する主観には奇妙な解釈を抱かせる。例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』があるが、あれは私からするとポルノだ。SF学園ものと言う認識ができる前にポルノと認識されたのだから仕方がない。涼宮ハルヒの憂鬱のイラストを描いている、いとうのいぢ氏はアダルトゲームでの原画家をやっているので、そのイラストを見た私の最初の感想はエロゲーだった。次にネットで出回っている『涼宮ハルヒの憂鬱』のキャラクターたちの絡みシーンの同人誌を読んだので、もう完全にポルノである。同人誌を知った時点では涼宮ハルヒの設定も知らなければ、ストーリーもしらない。ただポルノであると主観的に認識だけはされた。次にニューズウィークの2007.3.21号を読みました。すると涼宮ハルヒが反戦デモのポスターに使われているそうだ。「子どもを殺さないで」というメッセージ付きで。もはや原作とか公式設定とかどうでもよくなる。そして、いよいよアニメ版の涼宮ハルヒを視聴したのだけど、「へぇ〜」と思って終わり。ライトノベルにしても読んでもない、今後読む可能性も低いと思われる。こんな有様なのである。〈作品〉という概念は観念的なモノとしてはあるのだが、実体としてはまるでないのだ。
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 セーフティーネットについて考えてみます。セーフティーネットの構築も理念から始めるのではなく欲望に忠実に従った形で築いたほうが楽だろう。年金や社会保障は疲れるのだ。そこで代替えとなるセーフティーネットとして、「猫」を上げたい。猫を守るために社会は回っているのである。猫も守れないようではこの国は滅びます。もはや猫は産業となっていて一つの経済まで形作っているのだから、猫に萌えることで日本はシステマティックに回るのである。
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 ようするにネットオークションは可能性の半分しか使われていないんです。「これ売ります」とはやれるけど、「これ買います」がない。そして「これ買います」を0円に設定してしまえば、事実上、貨幣経済の消滅を意味します。ようするにネットオークションの潜在的可能性とは交換システムであり、その交換システムは貨幣経済に匹敵するのです。
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 なんでコメントなんてしてるのかと言えば、ブログの管理者は執筆と管理の両方をやらなければならない。だけどコメントは管理をしなくていいんだなと気が付いた。掲載するか公開するかに悩まなくてもいい。ただ書き散らすだけ。だからコメントでもしてようかなとダラダラ思いました。
 なんでこんな書き込みがなされるのかと自問してみる。それはネットが普及する以前なら私みたいな存在はいても見えてこなかった。だけど、ネットがあるから否応なしに吸い寄せられてしまうんです。どうしてこんな惨めな醜態を晒さなければならないのだろう?と考える反面、では醜態すら晒せない人はどうなっているんだろうと考える。
 例えばネットの時代を、ディープな時代、カジュアルな時代、ポピュラーな時代、ベーシックな時代の4つに区分してみる。ディープな時代では本当にマニアックな人が集まってやっていた90年代中頃の時代。カジュアルな時代は一般人の中でも前衛的な人がやり始めた90年代後半の時代。ポピュラーな時代は電車男などが出てきて普通の人もネットに触れた00年代前半の時代。ベーシックな時代はネットカフェ難民が出てきて貧困の人でもネットにはアクセスできるようになった、インターネットの基本的人権化が叫ばれるされる00年代中頃の時代。
 ネットがこれだけ普及して一般どころか貧困層ですら触れられるツールになったのに、未だに声が上がってこないとはどういう事か?私みたいに上げたくもない声なのにネットの出現で吸い寄せられる一方で、声を上げたいのに上げにくい人々にとってはより閉塞的な状況になっているのではないか? 大体、ネットカフェ難民が騒がれているのに、ネットカフェ難民の書き込みやブログがないことがおかしい。どこに行ったんだ?書き込まれることも大事なことだが、書き込まれないことも問題視すべきではないだろうか。書き込まれないと言うことは、人々は問題意識すらなくて頭の中に構造体がインストールされていないのである。構造体がないから失語症になるのだ。
 誤解をしないように注釈しておくが私は赤木智弘氏の『希望は戦争』のような玉砕戦法の、ソーカル事件の手法として取っているのではない。あくまで一致することと、設計、現象、自由、脱出を論じているのである。そしてネットに書き込まれていない状態は「脱出」に該当するのだが、しかし必ずしも脱することが良きこととは限らない。自由に書き込める環境が与えられているのに選ばないのは、拒絶が理由となることもある。その場合の脱するとは自由を与えられているにも拘わらず脱しているので、まるで選択的に拒否しているかのように見えてしまうのである。取りこぼされた手紙が疎外された形での「脱出」となってしまうこともあり、自分と向き合っても自由ではなく拒絶へと繋がってしまうのである。
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 ネタ切れ。

ノクノク | 2008年11月01日 06:07

non-heavy user | 2008年10月25日 17:44
non-heavy user | 2008年10月21日 18:36

同一人物でいらっしゃるのでしょうか。
だとしたらますます味わい深いですねぇ。
ネットリテラシーって何でしょうねぇ。

ほんとうにごめんなさい | 2008年10月25日 19:17

今回のテーマを考えると、
non-heavy user 氏の反応も含めておもしろいですね。
炎上かどうかわかりませんが、
引っ込みつかなくなった人たちによって、
コメントが伸びていくこともあるだろうし。
50で炎上ならまだまだ足りませんね。

私自身は正直、コメント欄なんてなくていいと思いますが。
2chのマル激スレとたいしてかわりませんよ。

ごめんねー | 2008年10月25日 18:51

真面目に番組を作っている人たちや、真面目に番組を見ている人たちに申し訳ないから、もし足を引っ張る悪意があってやっているのでなければ、そろそろいい加減やめたら。

あなたたちのせいで、誰もコメント書き込まなくなってしまうよ。誰もこんな人たちと一緒にされたくはないと考えるでしょうから。

とにかく、皆さんにコメント欄を読む気を無くさせるようなくだらない書き込みは、そろそろいい加減にやめませんか。

non-heavy user | 2008年10月25日 17:44

だんだんおもしろくなってきたぞ。
やっと「くずコメント」をみとめたね。

>テーマについて自分自身のコメントが出来ない人

それってCくんじしんもふくまれてるんだよね。
まさか、

>たいくつ。
>途中で寝ていた。

ってのがテーマについてのコメントとかいいだすんじゃないよね。
それこそチラシのうらがだいかつやくだよ。

Cくんはとうぜん「テーマについて自分自身のコメントが出来ない」りゆうをかいてくれるんだろうね。
Cくんにも「自分の人間性を見つめ直して欲しいな」。
るいはともをよんじゃうんだよね。

Fくん | 2008年10月25日 16:42

Eくんへ
このようにして、くずコメントが続いて行くのだ。
Dくんも、Eくんも、Cくんのコメントへの批判であって、テーマへのコメントではない。
他人のコメントを茶化すくらいなら、テーマについてちょっとは何か言ったらどうだ?
まあ、Cくんの毒にも薬にもならないコメントをきっかけに、DくんもEくんも自分の人間性を見つめ直して欲しいな。
それにしてもテーマについて自分自身のコメントが出来ない人というのは、何か理由でもあるのかな?
炎上というのもこの手の人間が多いからだろう。

Cくん | 2008年10月25日 09:22

Cくんのコメントのどのへんが「手のうち」なんだい?

>たいくつ。
>途中で寝ていた。
>それより、ニュースで、振り込め詐欺という社会現象について、社会学者ともあろうお方がそこらの世間話程度の話しかできないのには、がっくり来た。
>それもあったのかも。
>それにしても、炎上させることを商売にしてる人ってのがいらっしゃるんだね。

ないようのなさではDくんのコメントとまったくかわらないじゃないか。
よのなかにはチラシのウラというたいそうべんりなものがあるらしいぞ。

Eくん | 2008年10月24日 21:52

Dくんへ
Cくんへの反感、ビンビンでコワ−イ。
根に持たれてる感じやな。
自分はテーマに対し毒にも薬にもなるコメントをせず、他人の毒にも薬にもならないコメントに批判的コメントをするのって面白いですね。
ダイイチ、自分の手の内をさらさなくていいですしね。
しかし、その分、自分のいやーな性格というか本性は赤裸々ですぞ。
これも炎上の手口?

Cくん | 2008年10月23日 20:59

どくにもくすりにもならないコメントをわざわざつけるのは、
いったいなぜなんだい?
そういうしごとでもあるのかな?

Dくん | 2008年10月23日 00:08

たいくつ。
途中で寝ていた。
それより、ニュースで、振り込め詐欺という社会現象について、社会学者ともあろうお方がそこらの世間話程度の話しかできないのには、がっくり来た。
それもあったのかも。
それにしても、炎上させることを商売にしてる人ってのがいらっしゃるんだね。

Cくん | 2008年10月22日 22:18

日本人は(私も含めて)議論が下手だし、議論で「俺の存在」みたいなものかけてするからリアルじゃできないようになってる。だけど文章を書いてコミュニケーションを取る掲示板なんかの議論は日本人の「己の存在をかけて」書き込んだりするのは向いているんじゃないの。
もともとインターネットの掲示板は馴れ合いで成り立っていたけど先鋭的な人間たちが集合知の問題も含めてコミットし始めたからテレビマスコミみたいなくだらんメディアをあっという間に批判しつくしたってことで。
今まで馬鹿みたいなコメンテーターとか司会者とか御用学者のいうことを鵜呑みにしてきた分本当のことがわかればマスコミなんてただのゴミくず野郎の集まりでしょ。そんなやつらが高級取りでのさばりやがって。そんなやつらを徹底的に批判するのは意味あること。
「お前らなんか高級取りでたんまり金もらってえらそうにしてるけど掲示板の議論にも負けるんでしょ?お前の存在って何?」ってね。
もちろん機会の操作方法説明できるからといって機械の操作ができるわけじゃない。
ジャーナリズムの没落と評論家気取りの批判とは、そのままジャーナリズムなるものの現状を表してる。
もっともジャーナリズムなんてなかったけど、この国

無記名 | 2008年10月22日 03:24

>KHIさん

「慣れの問題」じゃなくて、先代と同レベルの味では、先代の味が美化されてる分、評価が下がる。っつー話じゃなかったけっか?

で、天ぷら屋の息子は(山岡士郎の助けも借りて)付合わせの漬物の味(油っこい口内をリセットさせて、また次の一口が美味くなるみたいな作戦)で先代を超えることによって、遠のいた常連の客足を取り戻した。みたいな。

僕は武田さんの司会好きなんだけど、欲を言うなら↑の天ぷら屋の息子よろしくで、神保さんとは全然違う領域の"良さ"を見せてくれることを期待してます。

ってか今回Gジャンとか着てて「おっ」と思ったね。今までのマル激にない「若々しい風」が吹いてる感じが良かった。神保さんの釣りのおじさんベストの安心感も好きだけど(笑)

Wakayama | 2008年10月22日 02:26

ゲストの方が言っていた「ネットの中傷問題を警察や裁判所に頼らず現実的に解決する方法」がスルーされてしまいましたね。コストがかかることはよく分かったんですが、韓国の自殺報道 等をみるとうまい制度を見つけないと思います。そうでないとすべてログをとる形になってしまいますからね。

ビデオニュースの司会者の方については『美味しんぼ』の天ぷら屋の話を思い出します。天ぷら屋の主人が亡くなって息子が跡を継いだけれども常連が「息子に替わって味も変わった。先代の方が良かった」とぶつぶつ言っているのを山岡シローが「単に慣れの問題だ。息子の天ぷらもうまい!」と喝破していました。

久米氏から古館氏に替わった例のニュース番組でも古館氏に替わった直後は相当の違和感がありましたが、今はもう慣れました。たまに古館氏がそのニュースに関心がないのに単にうまいことをいいたいだけCM前に言い放つときハナにつきますがそれくらいです。

KHI | 2008年10月22日 00:41

今回のは、ネットを熟知している人にとっては、表層的で食い足りない、と思った人が多かったと思うけど、マル激は必ずしもネットにどっぷり漬かってる人ばかりが見ているわけではないので、今回の内容は啓蒙的な内容で正しかったと思います。
「炎上」に肯定的すぎる、という意見もあるようですが、「炎上」を知らない人にとっては、恐さだけが目立ち利点が見えにくい場合があるように思うので、「炎上」という一見恐そうに見える現象を語るには、まず肯定から入る、というのは間違いではないと思います。
次回機会があれば、炎上を起こす側の動機にどこまで正統性があるのか、炎上を起こす選択基準が偏っていないか、などの突っ込んだ議論も聞いてみたいです。

kawauso | 2008年10月22日 00:18

>>non-heavy userさん
 同意です。実はそれは積み残した課題なのではないかと思います。PCやネットは全般的に慣れてしまうと手軽なんですが、しかし慣れるまでが大変で、出遅れてしまうと教えてくれる人がいないんです。すると、差が固定化されてしまい、ず〜っと継続されたままになります。
 もしかしたらネットに興味がある人がいるかもしれない。だけど、途中参加するのは不安がある。しかもその不安は的中していて、大抵途中参加者は内心バカにされます。
****
 上記の内容は不満として度々上がっていると思われます。そしてその不満はある循環を形成している可能性があります。
 気後れして参加しにくい → 参加しないので感覚が身に付かない → 感覚がないので参加しにくい → ますます参加しなくなる → 感覚のなさが参加を遠ざけ、参加しないから感覚が身に付かない。という個人レベルの循環。
 誰も不満を書き込まない → 不満は存在するのだけど蓄積されていかない → 蓄積されないので古くからのネットユーザーは気が付かない → 気が付かないので話題にならない → 話題にならないので誰も不満を書き込まない → 書き込まれたとしても蓄積されず発散してしまう。という書き込みにくい空気の循環。
 おそらく、ブロガーなどの管理者は問題を意識していない可能性があります。だからブロガーから見た炎上ばかりが話題になって、コメントする人から見た炎上は話題にならないのです。
 もしも記者クラブが解放されたら・・・、と想像してみてください。ビデオニュースは権益を得るのです、そして"私たち"も歴史の証人になれます。では、もしも参加できなかったとしたらどうでしょうか? テレビなら談合していますから否応なしに歴史的な場面を目撃できますが、ビデオニュースは良くも悪くも小さいので、知っている人は偉くて、遅れてきた人は凡人だと、差が発生してしまうのです。

ノクノク | 2008年10月21日 23:43

私は逆に参考になる話が多かった回でした。

炎上現象が起きていることは知っていましたが、それをどう捉えたらいいものかを量りかねていました。

このニュースは大手メディアがほとんど取り上げないので、それほど重要なことではないのかとも考えてしまいがちでしたが、自分たちが炎上の対象になることを恐れて、触らぬ神に祟り無し的な理由からあまり触れようとしてないこともよくわかりました。もちろん大手メディアは炎上問題を取り上げない理由として、対外的には、「それほど公共性のあるテーマではないから」と言うのでしょうけれど。

おそらくこの問題は、デジタルデバイドがもっとも顕在化するタイプのテーマなのでしょう。私のようにネット文化に乗り遅れている者のとっては、今回の番組は思わぬ福音でしたが、多くのヘビーユーザーの方にとっては、釈迦に説法だったのかもしれません。

逆に丸激が必ずしもネットリテラシーの高い方々だけを相手に発信されている番組というわけではないことが確認できたという意味でも、よかったと思います。

きっとそう感じている方は多いはずです。きっとそういう人たちの多くは、気後れして、コメント欄に書き込みなどはしないのでしょうけれども。

non-heavy user | 2008年10月21日 18:36

 ゲストの方の限界もあるでしょうが、議論自体の表層をなぞっただけで終わったような印象をうけました。
それに今回のテーマは丸激で2時間近くもかけて掘り下げていくようなものでしょうかね?

無記名 | 2008年10月21日 17:59

 黒田さんの評判がよくないみたいですが、私は黒田さんの司会も好きですよ。司会としての基本的な要件かもしれませんが、下調べはしっかりしているし、ゲストのお話をよく聞いているし、レスも的確だと思います。
 ちなみに町田徹さんの味も悪くありません。
 どうして気に入らない人が多いのかな。神保さんに慣れてしまっているからではないでしょうか。
 たしかに神保さんの司会は最優秀でしょうが、他の司会の方のスキルも基本的な要件は備えています。
 ただ、視聴者によっては、声や口調に耳障りな点があるのかもしれませんね。まあ、あまりきついことをいわないで、よい点を見つけましょうよ。

シュウ | 2008年10月21日 17:39

あの〜神保・宮台コンビが隔週なら250円(263税込み)で御願いしますw

満腹感→上げ底→消化不良
以前のスタイルに戻ってほしいです

リキ | 2008年10月21日 15:29

荻上チキか佐々木俊尚を呼んだ方がよかったのでは。

ラクノウ | 2008年10月21日 07:18

訂正です。
私の文中に有る「安田弁護士のブログ」は「今枝弁護士のブログ」の誤りでした。
ごめんなさい。

デミトリー | 2008年10月21日 06:19

○kawausoさん

う〜ん、ネット外での出来事が切っ掛けになってネット上で炎上するって普通に有る事では?
エアロバキバキ事件なんて徹頭徹尾ネット上だけの出来事・・・じゃなかったですよね。犯人がネット外でやった事を自ブログ上で自慢したが為に起こった訳で、これは現実の後追いでしょ?
他にもテラ豚丼騒動とか有りましたよね。

また、橋下弁護士(当時)の呼びかけに応じてネット上には懲戒請求の文章テンプレートや、関係弁護士会の連絡先をまとめて表示してるサイトも出来たんですよね。

ウェブ魚拓キャッシュ
http://megalodon.jp/?url=http%3A%2F%2Fwww.k3.dion.ne.jp%2F%7Esugiura%2Findex5.html&date=20070913005836

これらによって懲戒請求へのコストが劇的に低減されたからあそこまで多くの請求が出された訳で、インターネット普及以前では考え難い性質の事件だったと思います。その様な意味でもネット炎上と呼ばないで済ませるのは難しいのでは?
被告弁護団への非難はネット上でも相当されてましたし(安田弁護士のブログは酷く「炎上」しました)、橋下氏による「呼びかけ」直後にそれを批判する記事をブログで書こうとするならネガティブなコメントが沢山付く事を覚悟しなければならなかったでしょうね。(そういうコメントが付いてるブログも見ました)

>それに、まだ結審してないし。

控訴の理由が振るってますよね。
ウェブ魚拓キャッシュ
http://s04.megalodon.jp/2008-1021-0516-09/www.asahi.com/kansai/kouiki/OSK200810020030.html
「判決が不当とは思わないが、三審制ということもあり、一度、高裁にご意見をうかがいたい」

判決が不当じゃないなら、控訴審ではどこを争点にするんでしょうか?理由がハッキリしない事を明言しながら控訴できる面の皮の厚さってどんだけぇ〜?(半死語)と驚かされましたよ・・・

デミトリー | 2008年10月21日 06:07

今回は「浅かった」ですね。とくに目新しい要素はなし。ゲストはステイクホルダーの権化みたいな存在だから信憑性に欠けるし、武田さんは司会しすぎでバランスをとってるだけ感は否めず神保的なジャーナリスティックな突っ込みは控えめ。宮台はなぜか一般論に終始してるし。タイトルにある炎上肯定論もネット虐めで自殺者が出るなかあまりに安易すぎる。時々、マル激ではこういう「浅い」回がある。規企画倒れというやつだ。いっそ佐々木俊尚を呼んだ方が面白かったのではないか。そもそも、どうしてこの時期にネット炎上の問題を扱おうとしたのか。今更である。waiwaiについてはこないだのコメントで十分だろう。

児童小説 | 2008年10月21日 00:27

光市の懲戒請求は、現実社会で起こったことにネットが後追いしただけだろ。
「ネット炎上」ではない。
それに、まだ結審してないし。

kawauso | 2008年10月20日 16:46

私の場合は、今回は何とも食い足りない感じが残ってしまいましたね。ネット炎上といえば光市母子殺害事件の被告弁護団への懲戒請求騒ぎも非常に重要な出来事だったと思うのですが、サクッとスルーされちゃったのが非常に残念であります。
これはネットユーザーが成果を上げ得た毎日WaiWai問題や提灯記事ブログの問題とは対照的に、法律の素人であるネットユーザーの出した請求が通らないばかりか彼らを煽ったとされる橋下弁護士(現・大阪府知事)が損害賠償を巡る裁判で負けるなど、一時の勢いとは裏腹に足元の覚束無さを露呈した出来事でした。

マル激ではネット世論の影響力を重く受け止める論調でしたが、もっと違う切り口からも見て欲しかったですね。炎上事件は影響が大きい分その反動も時としてユーザーを直撃しかねない訳で、その時になって慌てても遅いんですから・・・
個人的にはネットが日常化した今日における振る舞い方、リテラシーと言うものを学生の頃から(できればもっと小さい頃から)身に付けさせる必要が有るだろうと思います。
橋下知事閣下は稚拙ではありましたが、世の中には確かに扇動者と言うものが存在するし、中には巧妙かつ悪質なのもいる訳で。そういうのに乗っかってしまったら洒落にならないですよ、ホント。(神舟7号の映像についたヘイトコメントぐらいなら「馬鹿だなこいつら」で済みますけど)

○平均的日本人さん
逆でしょ。

>政治とマスコミがするべきことをしていない

からあなたの様なヘイトスピーカーが量産されちゃったんですよ。

デミトリー | 2008年10月20日 13:14

 今回は、なにか議論がすれ違ってる感じを終始受けました。
 
 ネットを既存のメディアに対置して弁護するという感が否めず、ネットの相対性を主張しながら、ネットという漠然とした全体性で民主主義という文脈で曖昧にカバーした感じのとこが、どうも腑に落ちないまま投げ出された展開ですかね。
 うがった見方かもしれませんが、宮台氏のネットに関してのアンヴィヴァレントな感情が氏の発言を閉じ込めてしまったように思います。 

 神保さんが、いれば流れが大きく変わったのではないかと思われ、ちと残念です。
 武田さんと宮台氏のスタンスが基本的に同じで、どこかいろいろなことが当然という形で議論が暗黙の了解の中で飲み込まれていったのではないでしょうか?
 

喫煙者 | 2008年10月19日 20:21

今回の話ではあまり出てこなかったように思えますが、システム設計的な側面でネット上の言論を論じることができるのではないでしょうか?

リアルタイムの対面形式を右とすれば、ネットによる匿名性が確保されたものを左とすることができましょう。

右:リアルタイム対面形式
中道:α
左:ネット上の匿名の議論の場

議論という場を分類可能であるとすれば、上のようなのですが、他の方でこれ以外の切り口があれば聞かせていただきたいです。

そうして分類したら、それぞれの欠点と利点を列挙するわけですが、もう分かってる話だと思うので手短に。

完全匿名だと、自作自演が容易に可能になります。ユーザーIDを表示させると自作自演が困難になります。

右から左へこれのほかにどのようなメリットデメリットがあるかは省略します。

それぞれのメリットを組み合わせたネット議論システムというものが設計されれば、暇つぶしではない、価値のある意見交換の場ができることでしょう。

ネット上における1対Nの表現活動というふうに抽象化させれば、そこにはSNSや日記というのも出てきます。

いわゆるネット上の議論の場というものをAとしてSNSや日記をBとしたとき、それぞれどのような違いがあるのか?また、クロスする場面もありそれはどのようなことなのかということも考える必要がありましょう。

また、井戸の中のカエルの例えがあります。

私の周りでリアルタイムとネットがシンクロしてる人は一人か二人で、それ以外の人たちはネットが登場する以前とほぼ同じ生活をしています。私も昔はのめり込んでいたのですが、

ニートを卒業して外の世界を知ったときは、あれはなんだったんだろうという気分になりました。こうしてネットにコメントするのも久しぶりです。

なんだかコメントするのも面倒になってきたので、締めにしますが、ネット上の議論というものはさまざま側面から語ることができるので、暇つぶしには最適!というのは全員賛成だと思います。

※誤字脱字の訂正は省略

○× | 2008年10月19日 18:26

最近ここにコメントがたくさん付くようになったけどビデオニュースドットコムの会員さんが増えてるのかな?いいことだ。

無記名 | 2008年10月19日 17:49

コメント欄開けてないくらいで言論封殺って…。

投稿ボタンのすぐ下にある注意書きもろくに読めんような
バカウヨが大挙して突撃してくるんじゃ、
左翼じゃなくても言論封殺したくなるわな。

無記名 | 2008年10月19日 17:21

匿名希望さんに敢えて反論します。

私も勝谷さんのメルマガを拝読しています。
そして同じようなコメントを書くときもありますが、100件を越える賛同などは来ないですよ。
もちろん当該ブログの人気度によりけりですが。

>企業の広報部と政治家秘書と裁判官には、炎上の担い手たちの意見のコンセンサスが分かる勝谷氏のメルマガが必読ということですね。本当に嫌な世の中ですねwww

別に必読でもないし、常識的に判断すればいいだけのことです。
表題にあるとおり、炎上しても良いじゃないですか。
言いたいことを言った上でのリスクなんですから。
関連性のないことをあたかも関連性があるかのように書く書き方、
>・・・本当に嫌な世の中ですね。
は、朝日新聞系の書き方で非常に不快です。本当に嫌な世の中ですね。

ちなみに左翼系の方のブログはたいていコメント覧を閉鎖しています。
言論の自由をうたいながら、自分以外の言論は黙殺する。
本当に嫌な世の中ですね。

おゆなむ | 2008年10月19日 16:20

「平均的日本人」は黙れ!
うざいだけだから、さっさと巣に帰れ!!

あ | 2008年10月19日 08:26

そうですね。
老人宅を狙った強盗なんてのも同じことですね。
そこで殺人でも起こりゃ少子高齢化(ry

朝釣り | 2008年10月19日 07:53

振り込め詐欺は所得の再配分機能を果たしてる(非合法で倫理・道徳に反するが)。老人が息子・娘・孫を大切にしてる証だから、いいんじゃないの?(笑)。お金の流れとしてはどうなのだろう?年下の世代にお金を渡すことは、政府や課税の機能不全を補完してないか?階層が固定されてる社会に振り込め詐欺を導入したらどうなるのか?壮大な社会実験が行われてる日本ですね。

あ | 2008年10月19日 04:34

私の知り合いにそれなりに有名なクリエイターが居ます。既に閉鎖してしまいましたが、彼は以前にブログをやっていました。どうでもいい話が内容の大半でした。彼は本当は政治・社会についての意見も書きたいのだけど、炎上が怖いので控えているということでした。私は彼にこうアドバイスしました。
「勝谷誠彦氏の有料メルマガを購読しろ。そして、もし取り上げたいと思った事柄について勝谷氏と自分の意見が同じだったら絶対に炎上しないから書け。文章も少し過激な言葉を使うくらいが調度いい。もし勝谷氏と自分の意見が反対だったら、絶対に書くのはやめておけ。炎上の可能性大だ」
彼はどうやら、このアドバイスを忠実に守ったようでした。普段の内容だと近しい身内による2〜3件しかコメントが付かないのに、政治・社会について言及した回は、どこから湧いて来たのか100件はコメントが付き、どれもが賛同の意見ばかりだったということです。
企業の広報部と政治家秘書と裁判官には、炎上の担い手たちの意見のコンセンサスが分かる勝谷氏のメルマガが必読ということですね。本当に嫌な世の中ですねwww

匿名希望 | 2008年10月19日 02:58

なぜ炎上が起こるかと言えば、政治とマスコミがするべきことをしていないからである。
前半の炎上例の話の毎日新聞と青学准教授の件はどう考えても刑事事件として警察が動くべき事案である。しかし、現行法では処罰対象ではない。本来なら国家反逆罪なり犯罪被害者・遺族侮辱罪などがとっくに制定されてなければならない。問題の青学の准教授が懲役刑にもならず、大学を懲戒免職にもならず、学位も剥奪されない今の日本は徹底的に犯罪被害者・遺族がないがしろにされている社会であり、信賞必罰が全く実行されない社会であり、完全に間違った社会である。国家権力が人非人を罰しないなら市民が徹底的に罰するしかない。これは政治の不作為である。
また毎日の問題で例えるなら、2ちゃんねらーたちがやった一連の「不買運動」と「抗議運動」と関係者の個人情報の公表などの「社会的制裁」は、真っ先にメディアがやらなければならないものである。メディアの最も重大な役目の一つは「悪」に対する社会的制裁である。もちろん、個人の生活が完膚なきまで破壊されるほど徹底的にやらねばならない。悪人の個人情報や擁護・加担するような関係先の個人情報は真っ先に全国民に広く公開されるべきであり、正常な人間ならちゃんと集団リンチに加担しなければいけない。とにかくメディアが加害者擁護ばかりしているのだから、市民が徹底的に罰するしかない。これがメディアの不作為である。
自分は炎上を正常に民主主義が機能した画期的出来事として断固として支持する。でもまだ社会的制裁の段階であり不十分である。人非人は市民が直接、集団リンチして肉体的・生命的な制裁を下すとこまで行かないといけない。統治権力がそれを嫌だというのなら、炎上するような案件に対応する刑法をとっとと制定すべきなのだ。
論壇の話ならば、何よりも真っ先に行われなければならないことは、特亜反日カルト三国を徹底的に翼賛し続けた一部の書き手と媒体を提供したメディアの責任の徹底追及ではないのか? 自分は論座と現代の廃刊を心から嬉しく思う。あとは世界を廃刊に追い込みたい。少なくともブログ論壇は媚特亜反日勢力が大手を振って歩く今までの論壇なり学会よりも、遥かにまともな前提に立った議論が多い。現実の政治をブログ論壇の記事が動かすようになれば、確実に日本は良くなるはずである。

平均的日本人 | 2008年10月19日 01:56

 視聴してないけど書き込んじゃう。私は《炎上》について思うことがあります。それは《萌え》や《ですね、分かります》との共通性です。言語の起源調べる方法には二つあります、一つは構造主義的なアプローチ、もう一つは語源学的なアプローチです。

《萌え》の起源については諸説あり、どれが起源なのか未だに定まっていません。
《ですね、分かります》の起源も、様々な説が唱えられているので混迷しています。

 次に《炎上》について考えてみます。ブログや掲示板で書き込みが殺到して収拾が付かなくなる現象を指します。名称は「祭り」「炎上」「サイバーカスケード」「ネットイナゴ」など多様です。名称が各種ある場合は、どの名称が起源かを考えるよりもどんな環境に置かれると人間はある特定の答えに辿り着くのかを調べたほうが良いでしょう。名称が違っているのに同じ現象が観測されると言うことは世界各地で多発的に起こったと考えられます。ある現象や対象を別の名称で呼ぶことは、人類は広く行ってきました。
 分かりやすいのが「独我論」です。世界は実は存在しなくて、すべて自分が見ている夢の世界ではないか、という発想です。「独我論」の発想も誰かから聞く前に自分で思いついた人も多いことでしょう。なので、どんな環境だと「独我論」に辿り着くのかを調べるのです。
 話を《萌え》と《ですね、分かります》に戻します。《萌え》と《ですね、分かります》も、起源を一にするのではなく、多発的に発生したのではないかと考えることができます。どちらも簡単なワードやフレーズなので、人間の無意識が自然と辿り着けるのかも知れません。
 それでは「《萌え》と《ですね、分かります》の起源の諸説」はどこから発生したのかだろうか? 本当に起源なのか疑念があるのは然ることながら、起源でないのだとしたら、なぜ人間は起源だと誤認してしまうのかを考察して見ることができる。
 まずは期間と空間を区切ります、次にある単語やフレーズが使用される分布を数値化します、そして推論を立てていきます。

 《炎上》は比較的ポジティブな部類だという印象があります。起こそうと思って起こせるものではないし、炎上に参加できたことはいい思い出になるからです。
 古典的だけど「荒らし」と呼ばれる人、あるいは行為があります。荒らしにも二種類あると思います。一つは掲示板やブログなどのコミュニティーを使い物にならなくすること。もう一つは「この人は荒らしだから規制してください」と騒ぎ立てることで、気に入らない相手を追い出す為の口実にすることです。後者は「潔癖」とも言われます。一般的には前者を指しますが、後者もかなり困りものですね。

ノクノク | 2008年10月18日 23:14
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