マル激トーク・オン・ディマンド
Googleブック・サーチが問う出版の未来
マル激トーク・オン・ディマンド 第428回(2009年06月20日)
Googleブック・サーチが問う出版の未来
ゲスト:村瀬拓男氏(弁護士)
 またまたGoogleという黒船が日本の扉を叩いている。街中を写真に収めて回るストリートビューや空から世界中が見えてしまうGoogleアースなど、これまであり得なかった画期的なサービスで物議を醸してきたGoogleが、今度はグーテンベルク以来の出版のあり方を根底から変えようとしている。
 Googleは契約した図書館の蔵書をスキャンしてデータベース化を進め、いずれは世界中の全ての本をデジタル化する方針を明らかにしている。そして、これは紙の著作物の流通で収益をあげてきた出版業界にとって、自らの存在を根底から覆しかねない大問題となっているのだ。
 このサービスは「Googleブック・サーチ」と呼ばれるもので、アメリカでは04年、日本では07年に開始したもの。Googleが契約した図書館(米ハーバード大学図書館など。日本の慶應義塾大学が参加)の蔵書を片っ端からスキャンしてデータベース化したことで、既に利用者は本のページの画像をネット上で見ることができるようになっている。また、本の全文がテキスト化されデータベース化されているため、キーワード検察でその言葉を含む全ての本をリストアップすることも可能になった。本の全文がテキスト化されデータベース化されたことで、一般利用者は欲しい本を手に取ることなくネット上で見つけ、アマゾンなどで購入することができるようになっている。
 しかし、このサービスに対して、05年、米作家協会などが本の権利者の許諾を得ずに全文をスキャンすることは著作権侵害だとして、Googleを提訴した。Googleは米著作権法が定めるフェアユース(公正な利用)に基づいていると主張し、米作家協会らはスキャンは無許可の複製であると主張したが、昨年両者の間で和解が成立し、許諾なしにスキャンした書籍については1作品あたり60ドルをGoogleが支払うことや、このサービスから得られる収益の63%を権利者に支払うこと、版権登録機関の設立費用をGoogleが出すことなどが決まった。
 この和解の成立で、権利者(出版社、著者)は和解案に参加するか離脱するかを迫られることになったのだが、なんとこれが、日本の出版社や著者にも及ぶことが判明し、日本の出版界は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
 そもそもこの和解は、アメリカで行われた訴訟が集団訴訟(Class Action)という形をとっていたため、そこで得られた和解や判決は原告のみならず、その被害を受けた人全員に効力を持っている。それでも普通であれば自分が関わっていない外国の裁判所の決定になど拘束されないものだが、こと出版に関しては、日本はベルヌ条約という著作権を相互に保護する国際条約に加盟しているため、アメリカで保護が決まった著作権はそれが自動的に日本にも適用されるという。
 そのため、日本の著者や出版社も、和解を拒否したい場合は申請が必要で、一定の期限までにその意思表示がない場合は、和解を受け入れたものとみなされてしまうという。何とも乱暴な話だが、それがGoogleブック検索がまさに「黒船」である所以なのだ。
 出版業界と深い関係を持つ弁護士の村瀬拓男氏は、この和解案は出版業界のあり方を根底から覆すような、本質的な問題提起をしていると説明する。
 今回の和解案では、現在も市販されている本は目録情報や連動広告などのみが表示され、全文をネット上で読めるのは、絶版された本と、市販されていない本に限ることになっている。
 確かに、絶版され、市場で入手できない本がデジタル化されてネット上で読むことが可能になれば、従来、紙の本が持っていた物理的制約から解放される。しかし、紙の本を出版し、それを流通させることでビジネスを成り立たせてきた出版業界にとって、書籍の全文がデジタル化され、ネット上でそれが入手が可能になることは、自分達のレゾンデートルを脅かす大問題となる。なぜならば、Googleブック検索で全文を読むことができるのは、現時点では絶版された本に限られるが、これがいずれは全ての本に拡大していくのは、時間の問題と考えられるからだ。しかも、このサービスによって、利用者にとっては全面的に利便性が高まることになり、また、著者も63%という十分な利益配分を受けることができるため(現行の著者印税は通常10%!)、出版業界の利害のみを理由にして、この流れを一概に否定することも難しい。
 しかし、その一方で、Googleという米国の一企業が世界中の書籍のデジタルデータを独占することへの懸念もある。Googleが私企業であるがゆえに、この事業が未来永劫続く保障はどこにもないからだ。仮に全ての書籍データがデジタル化され、紙の出版が消滅してしまった後に、Googleが何らかの理由で倒産したり、経営上の理由からサービスの廃止を打ち切った場合、人類の英知が蓄積された本が、この世から消えてしまうことさえ、あり得ないとは言い切れない。
 その他にも、日本語はアルファベットに比べ、デジタル化した際の漢字認識の精度に問題がある。著者と編集者が力を合わせた結果として現在の書籍のクオリティがあるが、Googleブック検索では、日本人は間違いだらけのテキストデータで検索を行うことを強いられる可能性もある。
 本の売り上げは年々減少し、雑誌も相次いで休刊している中、時折繰り出すミリオンセラーでなんとか持ちこたえている瀕死の状態にある書籍業界にとって、今回Googleが突き付けた選択はあまりにも重い。今後出版業界はどう変わっていくのか。利用者にとっては一見いいことずくめにも見える書籍のデジタル化に、落とし穴はないのか。村瀬氏とともに議論した。
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マル激トーク・オン・ディマンド 第371回(2008年05月10日)
著作権は誰のためにあるのか
ゲスト:福井健策氏(弁護士)

村瀬 拓男むらせ たくお
(弁護士)
1962年大阪府生まれ。85年東京大学工学部卒業。同年新潮社入社。週刊新潮編集部、電子メディア事業室等を経て05年退社。06年弁護士登録。
この記事へのコメント

手を引いた方に何を言っても仕方ないけれど、繰り返します。この掲示板において私の議論に物申すときは、まぐさんご紹介のページの[立場を置き換えた死刑論]は成り立つという結論になるように理論武装してきてください。懐疑しろといわれても、番手さんがしてくださった私の議論の要約は全然覆りません。

しかし、せっかくのご批判なので、私も自分の議論を懐疑してみました。批判自体はありがたいことです。自分の議論を反省するきっかけになりますから。しかし、今回は見直してみても特におかしいとは思いませんでした。以下、詳細を述べます。

>もしこういう懐疑主義的な認識論に基づくのなら、

まず、私は自分の議論が懐疑主義的な認識論とかいうたいそうなものだとは思っていません。ごく当たり前のことだと思います。もう一度要約しなおしましょうか。「勝手な事件を妄想しておいて、自分は死刑を受け入れるなんておかしい。各自で想定する事件が違うのだから、死刑という結論の是非を議論できる前提が欠けている。」ごくあたりまえです。

>ご自分の別の議論(政治的議論と倫理的議論を分けるべき)にもその懐疑のまなざしを向けるべきだと思いますよ

こちらが批判のメインですね。しかし、この点もおかしいとは思いません。むしろ、分けて議論すべきだと思います。もっと言うと、刑罰についての法学的素養もなく死刑について語るなと思います。倫理的な議論であれば、法学者たちにとって爆笑ものの議論をしてもかまわないというのでしょうか。もちろん違います。

たしかに、一般的に、倫理的に刑罰の議論をすること自体は結構です。しかし、その議論は法学者等、刑罰についての教養ある人の批判に耐えうるものである必要がある。

そこで、問題はあのページの議論が批判に耐えうるものであるかどうかですが、とうてい耐えることはできません。「殺人者」という想定が各自バラバラ(その意味で不可能)なので、それについて刑法何条の構成要件を当てはめ、違法性阻却事由の有無を確認し・・・・・・等等はできませんから。

例えばカントは倫理学者でありながら死刑について検討したから、倫理学的に死刑について検討することはできるとお考えでしょうか。それはあまりにも浅はかです。まず、カントが倫理学者なんていうのは後の人がつけたラベルです。次に、カントの議論は具体的事件なんて想定させません。だから純粋に倫理的議論として公の批判にも耐えることができます。

しかし、あのページの議論は、具体的事件を想定させる点で、もはや純粋に倫理的に議論することは不可能です。刑法や刑事訴訟法の領域に介入せざるを得ません。それにもかかわらず、法律に無知なまま、「倫理的議論だからいいんだ」といって話を進めても、そんなものは子供が泣いてるのとおんなじで、相手にできません。

そんなところです。

存在 | 2009年07月25日 18:12

存在さん

私からあなたへの批判は「もしこういう懐疑主義的な認識論に基づくのなら、ご自分の別の議論(政治的議論と倫理的議論を分けるべき)にもその懐疑のまなざしを向けるべきだと思いますよ」と述べている通り。

「意味不明」「揚げ足取り」等のラベルは、存在さんの議論が「まぐさんに対しては過剰に懐疑的で、持論に対しては直観主義的な点」を指摘するものだった。もちろん「実際に意味が分からない」などということはない。単なる皮肉だ。

わたしはなぜにこんな皮肉を述べたのだろうか・・・。自分でも明確にはわからんが、まぐさんと存在さんの議論が傍目に見ていて痛々しいものに思えたからだったと思う。

だからといって、私が横槍を入れたのはまずかった。入れ方もまずかった。私の横槍のせいもあって、死刑の話からはずいぶんとずれてしまった。大いに自省すると共に、この議論から、私は手を引く。今回のことはけっこう勉強になった。今後、これを生かすことにした。

ニシ | 2009年07月19日 17:56

このところ多忙で間が開いてしまいました。宛名を書かずにまとめてコメントします。

まず、番手さんの要約は私の言いたいことと同じです。読み取っていただいてありがとうございます。同じコメントなのに、番手さんのように正確に読解できる方もいれば、ニシさんのようにさっぱりな方もいるのですね。

そのニシさんですが、私のコメントがわからなかった割には、しっかりと「高飛車」「揚げ足取り」というレッテルを貼っていただきました。これについて一言申し上げます。

私はこのような公にさらされる文章を少しでも面白くしようとして、皮肉を交えることがあります。私の皮肉は、まぐさんのこのコメント(まぐ | 2009年07月11日 17:16)やニシさんの「高飛車」「揚げ足取り」などの単なる感情的反発によるレッテル貼りとは異なり、内容を伴った文章にに付加されたスパイスです(まあしかし、「青二才」や「コナン」など、スパイスにしては行き過ぎた言葉を使ってしまったかもしれません。その点は反省しています)。

しかし、ニシさんは文章の内容を理解できなかったのですから、スパイスをまともに食らってしまい、感情的反発をされているように思います。それは仕方のないことです。しかし、それはあたかもラーメンを食べずになぜか胡椒だけを食べてくしゃみをしているようなもので、滑稽ではあります。何より、内容ある文章に付加されていないので、面白みがありません。

これはまぐさんニシさんに限りませんが、どうせ感情的反発をなさるなら、まぐさんのご紹介のページの[立場を置き換えた死刑論]という議論は成り立つという結論になるように理論武装して、私を納得させるような議論を展開してください。それなら面白いので、私も付き合います。

存在 | 2009年07月19日 13:21

ニシさん、ありがとうございます。
横槍の方が登場したようですが、意義を認めませんので、具体的は反応は、しません。

さて、
>ただし残された問題に、その質的判断の客観性や正統性をいかにして調達するか?という点があろうかと思います。

客観性は困難でしょうね。
強いて言えば、日本人の共通感覚を調査していた学者がいますので、そのような方向からの特定には可能性があります。
正統性は今後の裁判員制度の機能しだいですね。

>「現在の制度において、国家権力をコントロールするための仕組みは、どの程度整っているか?」「それは十分に機能しているか?」

上記の検討が必要である事は同意します。
ところで、最高裁判事の国民審査ですが、×ではなく○を貰い、信認を受ける制度に切り替えた方がいいです。
信認されない判事が出て、初めて国民は関心を持ちますし、判事側に判断を説明する事に動機付けが生まれます。

まあ、あまりポピュラー・センチメントに考慮すぎるのも難があるので、有効票の三分の一とか四分の一で信認されるぐらいがいいのかもしれませんが。

まぐ | 2009年07月14日 13:10

存在さん
少なくとも私には、あなたが何を言っているのか全く分からなかったです。存在さんや番手さんの補足を踏まえたら、ちょっと分かりましたが。

>「『殺人者』と仮定しろと一言で言っても、殺人の具体的情況は無限にある。よって、一律に死刑の判断をするのは不可能。」
もしこういう懐疑主義的な認識論に基づくのなら、ご自分の別の議論(政治的議論と倫理的議論を分けるべき)にもその懐疑のまなざしを向けるべきだと思いますよ。

番手さん
横槍入れるのは全く問題ないですよ。謝る理由が分からない。

おっしゃられていることは分かりますが、これまでの存在さんのものの言い方があまりにも高飛車だったり、揚げ足取りっぽかったりしたのが気になったので・・・まぁ要するにまぐさんを励ましたかったわけです。

これからは気をつけます。だからあなたも「みぐるしい」とか人にいきなり言い放つのは止めてもらえませんか?

ニシ | 2009年07月14日 13:06

はじめまして。番手と申します。

横槍失礼します。


存在さんの言う「殺人者を仮定することは不可能」というのは、ごくごく普通に理解できます。

もっと簡単に言えば「極めて恣意的で、不正確な仮定をすることならば可能。しかし、その仮定をもって論じるのは無意味」ということではないでしょうか?


さらに大雑把に、わかりやすく言えば「救いようのない極悪殺人者を仮定しておいて、自分が殺人者なら死刑を受け入れる。なんて言い分はちゃんちゃらおかしい」ということでしょう。


まぁ、存在さんの言いたいことは違うのかもわかりませんが。


いずれにせよ、理解できないからと暴言を吐いたり「意味不明」で終わらすのは見苦しいです。


途中まではコメント拝見してて、双方面白かったんですけどね。。。

番手 | 2009年07月14日 04:35

ニシさん
意味不明といわれたら、説明したくなってしまいます。

「『殺人者』と仮定しろと一言で言っても、殺人の具体的情況は無限にある。よって、一律に死刑の判断をするのは不可能。」

私の議論の核心だけ書くと以上のようになるのですが、これでも意味不明ですか?あと、どのあたりが意味不明だったかもできれば教えてください。

存在 | 2009年07月14日 00:15

まぐさん&かがみさん
質問するだけして、返事が遅くなってごめんなさい。

まず、まぐさんに言っておきたいことがあります。
存在さんの「立場置き換え云々」についての議論は、意味不明だと思う。
そんな中で、あなたは存在さんとの議論にかなり誠実な対応をしたと思う。
以上、余談でした。

で、本題です。

カガミさん
>「生命重視」に傾きすぎな印象が漠然とあるのですが
これについては感じたことがなかったです。ちょっと色々と資料をあたってみようかと思っています。この点についても保留させてください。
ただし、もしカガミさんの仰るとおり、生命の過剰重視傾向が存在したとしたら、私としてもその傾向に違和感を感じるだろうということは申し上げておきます。
理由はまだないですが(汗)。

まぐさん
リバイアサン云々の点については、私たちの間にある程度共通の土台があるみたいですね。ということで、それを踏まえて。

>まず現在の法は社会的価値観の毀損は認めず、あくまで個々の人権の毀損を問題にします。(略)但し殺人、それも特に異常な殺人だけは例外とします。
>問題は集団暴行によるもの、変質者によるものでしょう。犯行の残虐性、虚無性、異常性という質の違いをどのように判断するかの問題になります。

さくっというと「なるほど」って感じです。
「二人以上殺したら死刑」とかっていう微妙かつ恣意的規準が(少なくとも光市事件まで)存在することを鑑みると、残虐性といった犯罪の質的側面についても議論し、それを踏まえて判決をだすべきだと思います。
ただし残された問題に、その質的判断の客観性や正統性をいかにして調達するか?という点があろうかと思います。
今の日本でそんなことができるのか、僕としてはあんまり期待できません。共同体的価値を自明にするには、あまりにも我々の社会はバラバラだと思いますし・・・。

そんなことを考えていると、ふと気づきました。そのための制度があるじゃないか!(笑)
最高裁判事についての投票がそれです。
今度組まれるという最高裁投票に関する特集が楽しみになってきました。
そして死刑廃止云々についての議論を「現在の制度において、国家権力をコントロールするための仕組みは、どの程度整っているか?」「それは十分に機能しているか?」という検討なくやっても、あんまり実のある議論にはならないんだろうなぁと痛み入りました。

長くなっちゃいましたが、以上です。

ニシ | 2009年07月13日 00:14

まぐさん
おや、ずいぶん汚い言葉をお使いになるのですね。言っている内容もまるで意味不明です。私はまぐさんの議論に乗って、「モデル」の理解を深めようと思ったのに、どうやらすっかり怒らせてしまったようですね。

どちらが「酷い言い分」なのか。どちらが「無知」なのか。それらはこの議論の流れをご覧の皆さんの判断を仰ぎましょう。お疲れ様でした。
==
Gさん
コメントのアップに時差があったので、直後にコメントできませんでした。第三者が見てくれていてとてもうれしく思います。私はまぐさんという方はもう少し話せる人かと思ったのですが、どうやらGさんの言うとおり、無駄だったようです。

最後に、コメントチェックの方、お読みの皆さん、長い議論をしてしまってすみませんでした。では、失礼します。


存在 | 2009年07月11日 22:46

あまりと言えばあまりに酷い言い分にキレそうになっている まぐです。

まるで死刑廃止運動家を思わせるような、存在氏の言いがかりにうんざりしながらも、反面、自分が全く気づかない論理の盲点があるのかとか、死刑という語句の文脈規定性を詰めて考えなかったのかと繰り返し考えてきました。

その結果はやはり存在氏の言いがかりか、無知に由来する主張でした。この回以降の丸激を充分に視聴できていない事を合わせると、失われた時間の多さに怒りが湧いてきます。

>ようやく議論も終わりに近づいてきましたね。マル激の掲示板と言うこともあるので、そろそろお互いに自重しましょう。

>私があーだこーだ言っているのはすべて「モデルだから許される」とおっしゃるのですね?

馬鹿も休み休み言え!!
お前に許しを請わなくてならない根拠と権限を示せ!

さて、気分を取り直して、丸劇にも平和運動家のような人種が視聴しているんだね。少し驚きました。そのような人種は宮台氏の言論に無毒化されるものとばかり思いました。最も宮台氏の福島瑞穂の接し方の丁寧さに、隠れ社民党かと思う事もありましたが。

話を戻すと、平和運動家は軍事を語ると戦争を呼び込むと思うらしく、その議論自体を押さえ込もうとします。まして北朝鮮を批判し日本の軍備を強化すべきの主張をすれば、戦争策動家のような扱いを受けます。
そして平和運動家は正義は我にありと無根拠の確信を持っているから、リベラルな態度で臨むと大抵、運動家特有の押し付けがましさや捻じ曲がった論理にうんざりさせられます。

まぐ | 2009年07月11日 17:16

まぐさん
ようやく議論も終わりに近づいてきましたね。マル激の掲示板と言うこともあるので、そろそろお互いに自重しま
しょう。
まぐさんは、私の大方の議論を認めた上で、私があーだこーだ言っているのはすべて「モデルだから許される」とおっしゃるのですね?そして、モデルとは以下のようなものだと。

>>モデルとは、対象とするシステムを簡略化して、その本質を表したものであり、システムを理解するために
用いられる。
>>モデルを考察することによってシステムに対する理解(あるいは解釈)を行うことが可能になったり、現実のシステムのふるまいの予測を行うことができるようになる。例えば、実際に歩き回らなくても、地図を見れば行き方がわかるし、宇宙に出なくても地球の形状や各国の分布を知ることができる。

では、自分が引用した部分に責任を持ってくださいね。モデルとは「システムを理解するため」に用いられる。「国家統治を理解するための社会契約説」なんてのはすばらしいモデルですよね。とすれば、自分を「殺人者」だと仮定することによって、私たちはどんなたいそうな「システム」を理解しようとしているのでしょうか?「○○を理解(解釈・予測)するための××」という形式で、掲示板を見ている皆さんにわかるように教えてください。

次に、モデルの目的の裏返しですが、モデルを使って得られる成果についてです。ミクロ経済学のモデルによって得られた計算上の価格は、現実とそれほど大きく異なることはまれで、むしろ価格の予測に役立つからこそ、多くの人に支持されて教科書に載っているわけです。しかし、まぐさんはこのようにおっしゃいました。

>>検察が死刑と決めたなら、そして、検察の求刑をマスコミが支持して騒ぐなら、被告は自分が死刑になるべきと思うべきだ」これは暴論ですから、考慮に値しないですね。
>現実では暴論でもこのモデルでは正論になる。

いくらモデルとして正論でも、モデルを使って得られる成果が現実世界では暴論であるなら、そのモデルの価値はないと言われても仕方ないと思います。あのページの筆者はこれ見よがしにご自分のモデルを自慢しておられますが、現実世界で暴論である以上、考慮に値しないのではないでしょうか?

私はまぐさんとけんかしているわけではないのです。あくまであのページ執筆者です。まぐさんの「興味がある」にとどまるというお立場は認識しています。ただ、疑問なのはなぜそこまでまぐさんがあのページを擁護されるのか、それが私の説明不足に原因があるからだと思ったので、このような長文を書いているわけです。このへんでどうでしょうか。

存在 | 2009年07月10日 22:53

だからね、

「被告は自分が死刑になるべきと思うべきだ」(宅間はそう言い続け、彼の願いはまさに100パーセントかなえられたわけですが)、は「興味深い」「正論」なんでしょう?

そう思う人に、それがいかに浅はかな「暴論」であるかに気づかせるのは、ほとんど不可能なことではないか?

G | 2009年07月10日 21:16

存在さんはモデルを知らないのかな?
ウィキペディアから引用すれば

>モデルとは、対象とするシステムを簡略化して、その本質を表したものであり、システムを理解するために用いられる。その意味では、地球のモデルとしての地球儀、建造物のモデルとしての設計図、人生のモデルとしての小説、価値のモデルとしての金銭など様々なものがあげられる。

>普通、モデルは現実世界のシステムに対して簡略化されているので、現実のシステムを考察するのに比べてモデルだけを対象として考察を行うことが圧倒的に容易である。モデルが現実のシステムの興味がある部分の性質を残していれば、モデルを考察することによってシステムに対する理解(あるいは解釈)を行うことが可能になったり、現実のシステムのふるまいの予測を行うことができるようになる。例えば、実際に歩き回らなくても、地図を見れば行き方がわかるし、宇宙に出なくても地球の形状や各国の分布を知ることができる。<

ここで強調したいのは以下。
>モデルが現実のシステムの興味がある部分の性質を残していれば、

つまり、モデルは現実の捨象の仕方により様々のモデルがあり得るという事。
よって前にも言ったように「法的真実=実体的真実とその共有を前提にする」モデルがあり得る。

>存在さん
>検察が死刑と決めたなら、そして、検察の求刑をマスコミが支持して騒ぐなら、被告は自分が死刑になるべきと思うべきだ」
これは暴論ですから、考慮に値しないですね。<

現実では暴論でもこのモデルでは正論になる。

>あのページの間違いの本質は、「死ぬこと」と「死刑になること」を混同している点にある。
っていう私の結論部分に対するレスポンスはないのかな?
倫理的判断なら、なぜ死刑という国家の刑罰権を持ち出す?<

死刑の存廃を巡り、立場を置き換えて、つまりはモデルを作り、倫理的に考えようとしたから。
ちなみに私の立場は「興味深い」であり「必須」ではない。

まぐ | 2009年07月10日 14:28

>まず、実体的真実と法的真実が違う事は知っている。また、被告が死刑と認定されるのは法的真実に寄るのも判るというか当然。

はい、そうですね。補足すると「法的真実」=「検察が立証した事実」です。

>しかし、第三者である我々が犯人と入れ替わって、どのような主張ができるのか問うという場合、法的真実=実体的真実とその共有を前提にすることは当然の事だと思う。

「法的真実=実体的真実」とおっしゃいました。「両方が違うことは知っている。しかし、あえて区別しないんだ」ということですね。残念ながら、こう考える時点であのページの議論は破綻します。いいですか。どうせ「法的真実」とイコールで結ばれるなら、「実体的真実」なんて面倒な概念は観念する必要がないということになりますね。訴訟に目に見える形で現れる「法的真実」つまり「検察が立証した事実」だけを考えれば足ります。そうだとすれば、繰り返しますが、[立場を置き換えた死刑論]っていう大それた議論は、こう言っているに過ぎないことになります。

「検察が死刑と決めたなら、そして、検察の求刑をマスコミが支持して騒ぐなら、被告は自分が死刑になるべきと思うべきだ」

これは暴論ですから、考慮に値しないですね。

===
以上で終わりです。まぐさんが訳わからないと言っている内容はすべて「実体的真実」という概念を仮定した場合の話ですから、それを仮定しない以上、論じる必要がありません。

ただ、面白いから議論に付き合うと、私はSF的なことを主張しているわけではないですよw
例えば検察が「殺すつもりで首を絞めて殺した」と主張するところを、当の被告人が「殺すつもりはなく、大声を出させないつもりで口を押さえたら死んでしまった」と主張しているという事例で、「実体的真実」が後者により近かったと考えてみてください。そうすると、マスコミは検察の主張をそのまま流しますから、?遺族も?第三者も、被告はとんでもないやつだと思ってしまう。そのようにバイアスのかかった?遺族なり?第三者が被告人と(観念的に)入れ替わると、そりゃあ「自分は死刑になるべきだ」と思うかもしれないですね。被告人が経験した実体的真実を経験してないんだから。被告人の言い分なんて言えるはずがない。

つまり、実体的真実を経験しているのは本当の被告人だけだから、正しい防御ができるのは本当の被告人だけである。だ・か・ら、置き換え不可能なんだということです。

しかしですね、このように実体的真実を具体的に仮定すると、その仮定は常に恣意的にならざるを得ないんです。
『自分を「殺人者」だと仮定する過程で、任意の事件の自分勝手な事実認定を勝手にでっちあげ』るしかない。(存在 | 2009年07月03日 17:28 参照)
だから、そもそも想定する「実体的真実」が各人各様だから、皆が統一的に「死刑になるべき」という結論を
出せるはずがない。

>我々が捨象した事を倫理的に考えようとしても、その資源は日常的な伝聞であり、しかも個々人により伝聞は異なるので、妥当性や普遍性は高くはない。

これは多分今の私の説明と同じことを言っています。妥当性って部分が良くわからないけど、少なくとも想定する
「実体的真実」が各人各様だから、普遍的な結論は出ない。まぐさんはいじわるだね。これなら理解できるっていうけど、だったら私の記述をそう理解してくださいよ。

あと、>別の面から言えば・・・
以下は申し訳ないがまったく意味がわからない。わかる人いるのかな。

という感じです。私の結論(存在 | 2009年07月09日 01:48)になんら変わりありません。
ところで、
あのページの間違いの本質は、「死ぬこと」と「死刑になること」を混同している点にある。
っていう私の結論部分に対するレスポンスはないのかな?
倫理的判断なら、なぜ死刑という国家の刑罰権を持ち出す?
純粋に倫理的に考えれば「私は人を殺したがゆえに、自分も死ぬのが公平だ」になるんじゃないの?

存在 | 2009年07月10日 00:41

相変わらず、訳わからん。

まず、実体的真実と法的真実が違う事は知っている。
また、被告が死刑と認定されるのは法的真実に寄るのも判るというか当然。

しかし、第三者である我々が犯人と入れ替わって、どのような主張ができるのか問うという場合、法的真実=実体的真実とその共有を前提にすることは当然の事だと思う。

法的真実=実体的真実、しかも加害者、被害者の遺族、第三者の真実の共有は現実には不可能だから置き換えは不可能と、言うのは理解できない。
そもそも、置き換え自体がSF的で現実的には不可能だからだ。

例えば以下のような批判なら理解できる。
我々が捨象した事を倫理的に考えようとしても、その資源は日常的な伝聞であり、しかも個々人により伝聞は異なるので、妥当性や普遍性は高くはない。

別の面から言えば、加害者と被害者の遺族の関係は死刑制度が介在する事により断ち切られてしまうのだろうか。

死刑は加害者個人と制度の関係である事は理解できるが、それとは別に加害者と被害者遺族の関係も相変わらず並存すると思うが。勿論、現実には冤罪があり、遺族が法的に認定された冤罪の者を誤って恨むような事はあり得るが。

まぐ | 2009年07月09日 15:42

コメント欄をお読みの皆さん(そんな人がもしいれば)
この議論は[まぐ | 2009年06月21日 21:05]で紹介されたウェブページを基にしています。
まぐさんがこのページを紹介されたのは、番組中の宮台氏の死刑についての発言についてレスポンスしている趣旨です。ですから、まったく関係ない議論と言うわけではないので、どうかご容赦ください。そして、僭越ながら、よろしければ一緒に考えてみてください。

コメントチェックの方
上記のように、番組に関連する話題なので、引き続き寛大な処置を賜りますよう。

まぐさん

>>三者(遺族・第三者・殺人者)間で「実体的真実」が共有されていて、それに対する法的評価が三者間で共通し(殺人罪)、さらに量刑の評価も共通する(死刑)って話ですよね?

>いや、そのようには考えていません。(中略)実体的真実を前提にする事は自明だと思いますが。

「実体的真実が共有されているとは考えないが、実体的真実を前提とすることは自明である」
まるで禅問答みたいですね。
では、再度お聞きします。その「実体的真実」の中身はなんですか?というのは、死刑という量刑は、それが国家の刑罰権の発動である以上、(何度も言いますが)「具体的な事件の事実認定」すなわち「実体的真実」とその法的評価が前提とならなければ、判断されません。したがって、「自分は死刑になるべきだ」という判断には、必ず自分の犯した「具体的な事件の事実認定」があります。

あのページの議論がもしもまぐさんの言うように純粋な倫理的判断を記したものであるならば、なぜ、国家の刑罰権の発動たる死刑を持ち出すのですか?死刑は倫理の問題じゃなくて、制度の問題でしょ?純粋に倫理的な議論ならこうすべきでしょう。

「私は人を殺したがゆえに、自分も死ぬのが公平だ」

これならいいですよ。これなら私もしつこく「実体的真実」は何だ?とか聞きません(なぜ「生きて償うべきだ」ではいけないのか大いに疑問ですが、それは今までの議論とは関係ないので深入りしません)。
ただ、上記命題の「自分も死ぬ」という部分が「自分も死刑になる」だったら、話はまったく違います。後者であれば、「私は人を殺したがゆえに」なんていう抽象的議論は許されません。そんな適当な事実認定で国家の刑罰権を発動されたら、個人の自由は保障されませんから。

ここまで書いて、私の中では一応の結論が出ました。
あのページの間違いの本質は、「死ぬこと」と「死刑になること」を混同している点にある。

そういえば、あのページは中絶と死刑をなぜか対比していました(存在 | 2009年06月25日 17:23参照)。あのページの執筆者は「国家権力の行使」という死刑の本質を、「殺すこと」に恣意的に矮小化している。もし恣意的でなく、「国家権力の行使」という本質を本当に看過しているのだとしたら、あまりにもナイーブである。私は後者の可能性が高いと思います。作為の契機の不在。丸山真男のこの議論を宮台氏はマル激でたびたび引用しますが、ページ執筆者はまさに、死刑が人為的な制度であることを看過し、ただ「そこにあるもの」だと思っているのではないでしょうか。

まぐさん、のみならずたまたまコメントの流れを追ってみた皆さん、そういう結論でいいのではないでしょうか?

存在 | 2009年07月09日 01:48

>存在さん
>[立場を置き換えた死刑論]の議論は、まずアプリオリに三者(遺族・第三者・殺人者)間で「実体的真実」が共有されていて、それに対する法的評価が三者間で共通し(殺人罪)、さらに量刑の評価も共通する(死刑)って話ですよね?(だからこそ「殺人者」なんていう一方的な呼称を使うわけだ。)

いや、そのようには考えていません。
これは倫理上の問題と考えます。
例えば、ロールズの正義論のように、現実ではあり得ない状況を設定します。ここではいわば「神の目」から見ています。倫理的に置き換えを考える場合、実体的真実を前提にする事は自明だと思いますが。
故に殺人者は容疑者ではなく犯人です。
存在さんは、現実にはあり得ない設定ゆえに、置き換えは不可能としますが、そもそも置き換え自体が現実には不可能です。

まぐ | 2009年07月08日 05:11

まぐさんのコメントについて、後半部分へのレスポンスをしていなかったので補足しますよ。

>このように犯人が限定されたとしても、その加害者に対応する、個別的な被害者がいる以上、なんら入れ替え可能性には変りがないと思います。

「入れ替え可能性には代わりがない」とおっしゃいましたね。

では、論より証拠。まぐさん自身が誰か「殺人者」と入れ替わってみてください。そして、自分の行為に殺人罪が成立し、死刑が科される道筋を記した判決理由書(簡単でいいですよ)を作って、皆さんに見せてみてください。できますか?

存在 | 2009年07月07日 12:09

今読み返すと私のコメントもおかしいな。
事実認定と法的評価がごっちゃになってる。だからまぐさんにも
伝わらなかったかもしれない。こういう説明でどうですか。

[立場を置き換えた死刑論]の議論は、まずアプリオリに三者(遺
族・第三者・殺人者)間で「実体的真実」が共有されていて、そ
れに対する法的評価が三者間で共通し(殺人罪)、さらに量刑の
評価も共通する(死刑)って話ですよね?(だからこそ「殺人者
」なんていう一方的な呼称を使うわけだ。)

しかし、当たり前ですが「実体的真実」なるものは誰にもわかり
ません。それは過去の出来事だから(裁判で明らかになるのは、
あくまでも「訴訟上の真実」です。それはイコール「検察官の立
証した事実」だけどね。たぶんページ製作者もまぐさんもこの区
別ができてない)。

「実体的真実」の共有が不可能である以上、それに対する共通の
法的評価、さらに量刑の評価もまた不可能です。

えっ、もしかして、あのページの議論は「訴訟上の真実」つまり
「検察官の立証した事実」に対する法的評価(殺人罪)と量刑の
評価(死刑)が三者間で一致するはずってことなんですか?そう
だとしたら、[立場を入れ替えた死刑論]っていう大それた議論は
ただ単にこう言っているに過ぎないことになります。

「検察が死刑と決めたなら、そして、検察の求刑をマスコミが支
持して騒ぐなら、被告は自分が死刑になるべきと思うべきだ」

これじゃリンチでしょ。裁判いらないじゃん。

以上が再説明でした。ここからはまぐさんのコメントについて。
>このように犯人が限定されたとしても、その加害者に対応する、
個別的な被害者がいる以上、なんら入れ替え可能性には変りがな
いと思います。

「犯人」の限定なんて関係ないです。このコメントから読み取るに、
まぐさんの頭の中では、やはり死刑相当の「犯人」がアプリオリに
存在することを前提としていますね。そこが机上の空論の原因です。
「犯人」を定義してみてください。「殺人者」を定義してみてくだ
さい。それらの定義は実体的真実の存在を前提にしてるでしょ。そ
んな言葉を何の疑いもなく使うのは、名探偵コナンかなにかの観す
ぎですよ。

存在 | 2009年07月06日 20:48

まぐ です。
カガミさん、丁寧に説明頂きありがとうございました。
当方は蓄積が少ないので、長文による説明は大変ありがたいです。
カガミさんの説明で、あのサイト主の恣意性は了解しました。

その上でデリダのいう「奪われる利」を含めて、殺人に対する応報だろうという考えは起こりますが。

話は変りますが、ナチスの戦犯の扱いは実際にどのように扱われたのか、どのように処罰されるべきなのかを少し調べたいと思っています。

また、カガミさんの投稿を読んだ後、いろいろとネットを歩き、興味深いサイトがあったので以下に記します。
その中には自分の主張も危うくなる記述もあり、考えをまとめ直す必要を感じています。別な機会にでも、また、皆さんと遣り取りが出来れば幸いです。

on the ground 「刑罰は国家による復讐の肩代わり」という神話

on the ground 続・「刑罰は国家による復讐の肩代わり」という神話

on the ground 被害者及び死刑

倫理学の根本問題――価値相対主義とエゴイズム――松尾 隆佑

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 報復権は死刑存続の根拠たりうるか――ちょっと時期遅れの話題

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 自然状態というフィクション――報復権は死刑の根拠たりうるか(2)

以上はコピーペーストして検索してください。

追伸
>存在さん
>しかし、「自分が殺人者の立場なら」という仮定は、特定の事件の事実認定が問題となる。そして、事件自体が無数に存在しうるし、同じ事件でも
その事実認定は無数に存在しうる(実行行為の有無、因果関係の有無、故意の有無、違法性阻却事由の有無、責任能力の有無・程度、情状酌量の余地の有無・程度等の組み合わせ)。おまけに、事実認定が同じでも、法的評価に幅が生じうる。

このように犯人が限定されたとしても、その加害者に対応する、個別的な被害者がいる以上、なんら入れ替え可能性には変りがないと思います。


まぐ | 2009年07月05日 07:51

[立場を置き換えた死刑論]について
あのページが突っ込みどころ満載なので再びいちゃもんをつける。
「自分が殺人者の立場なら」という議論は成立しない。理由は簡単だ。

「自分が殺人者の立場なら」という仮定は不可能だからだ。

たしかに、「自分が遺族の立場なら」という仮定は(その仮定自体はとい
う限定付きで)理解できる。「最愛の親族が(何らかの理由で)死んだ」
という単一の事実を想定すればよいだけで、その事件の詳細(殺人事件か
どうか、犯人は誰か等)は問題とならないから。
しかし、「自分が殺人者の立場なら」という仮定は、特定の事件の事実認
定が問題となる。そして、事件自体が無数に存在しうるし、同じ事件でも
その事実認定は無数に存在しうる(実行行為の有無、因果関係の有無、故
意の有無、違法性阻却事由の有無、責任能力の有無・程度、情状酌量の余
地の有無・程度等の組み合わせ)。おまけに、事実認定が同じでも、法的
評価に幅が生じうる。
したがって、前者は可能だが、後者は不可能である。

ページ製作者を筆頭とする青二才がこの議論を成立していると勘違いする
とき、彼らは自分を「殺人者」だと仮定する過程で、任意の事件の自分勝
手な事実認定を勝手にでっちあげているんだろう。そんな妄想に立脚した
議論が成立するはずがない。

存在 | 2009年07月03日 17:28

カガミ→まぐさん、続きです。長文すみません。

【デリダと死刑廃止】
まぐさんが、デリダの困難性を以下のように指摘されたのですが、

> ともすれば加担してしまう論理を絶えず問い直し
> ているわけで、困難性のニュアンスも感じられて

これは、デリダの理論の困難性ではなく、正義そのものの不安定さです。
高桑氏の文章にもありますが、デリダは正義を安定しないものと定義しています。

> 正義はそのつど新たな決定においてその可能性を追求される.正義とは,
> 安定的に到達したり安定的に規定したりすることのできないものなのだ.

正義は安定したある状態でなく、不断の問い直しの作業、その行為そのものなのです。

まぐさん紹介のサイトにおいて、デリダ批判は、「死刑制度3」で展開されています。

要約すると、”デリダによる「赦しの倫理」は宗教的には真だが、宗教的なものを政治に持ち込み、死刑制度反対のために利用するのは誤りだ”と論じられます。

デリダによる、赦しと刑法との関係は、以下のように整理されています。

> ・・・赦しは原理的には刑法に対して異質的で
> 還元不可能であるにとどまらなければならない。

(孫引きですが、PDFへのリンクはこちらです: http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/religion/2005annual_phr-kaw.pdf )

赦しの倫理と、刑法は、原理的に区別すべきと、当のデリダにより説明されています。
その上で、デリダが死刑に反対するのは、一つには死刑制度は(カントの言うような中立的な場ではなく)、我々の「感覚」が賭けられている場だから、です。

再度、高桑氏の文章から引用します。

> カントの法の体系において死刑が否定されないのは, それが,
> 利を排除したところに置かれるものだからである. 司法はその
> 総体が, 私的な復讐ではない判断の場であるために, 利のない
> 場として想定されている. ・・・ ・・・  だが実を言えば, この
> 利を欠いた場は, ある隠れた利によって作動させられていると思われる。

一見、中立にみえる司法が、実は我々の「利」であるはずのもの、「死への感覚」や「死の瞬間への知」を奪う場所となっています。だから、我々の利益を守るために、この制度へ反対するのです。

カントであれば、罪と刑罰との応報関係によって、まぐさんであれば、共同体的価値観の毀損と刑罰との応報関係によって、司法が閉じて中立的な場を形成していると考えるのですが、デリダからみてそのような閉じた場は存在しないのです。

カガミ | 2009年07月03日 09:08

カガミ→まぐさん、レスありがとうございます。

【生存権】
まぐさんの紹介によるページには、例として嫌煙権運動、健康ブームを挙げていますよね。
それらは、国際人権規約でいうとA規約(社会権規約)の側、日本の憲法第25条1項の規定する生存権(健康権や幸福追求権)を根拠としてるものと思います。

一方、ご指摘の国際人権規約のB規約(自由権規約)第六条の条文ですが、「生命」は侵されてはならない、しかし、生命が侵されたときは、国家による死刑が可能だと続いています。
これは、国家の暴力を肯定するぎりぎりの線引きで、つまり、今日では、国家による暴力は「生命」への報復という形でのみ許されています。

不要かとも思いますが、一応、外務省内のページへのリンクです(http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/kiyaku/index.html)

国際人権規約が、第二次大戦という悲劇を繰り返さないために人道主義を取り入れ、さらに、一層大きな自由のなかでいわゆる福祉国家社会を目指すという理念を描いているのなら、嫌煙権運動などを例にとり「ただ生きていること」を最高の価値とすることは、生存権の曲解だと思います。
「ただ生きていること」という表現も、「人間の尊厳を奪われたまま行き続ける状態」を含意しているとも受け取れ、不用意に用いている印象を持ちます。

【立場を置き換えた死刑論】
「死刑の是非をめぐる主張は、語る主体の立場によって評価が変わる」というのは、単に「あらゆる主張は、語る主体の立場によって評価が変わる」ではいけないのでしょうか。
主張内容によりその人の立場は決定されるので、立場が変われば主張も変わります。妥当な判定を行うためには、「中立的な場」が要請されざるを得ないのではないでしょうか。

自分は、置き換えて考えることは、苦手な立場ですが、頭のリフレッシュには有効なテクだと思います。

続きは後日書きます。

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カガミ→ニシさん、レスありがとうございました。

冤罪の可能性を回避するには、「刑の執行」のみ保留にするもしくは判断を別のものに委ねる、ことも可能ではないか、と考えてみたりするのですがどうでしょうか。
また、生きてるうちに「冤罪」が証明されるかどうか分からないので、死後でも回復可能な名誉のほうが重視されるべきだとも思います。

いずれにせよ、世間では「生命」が前面に出てきて、「生命重視」に傾きすぎな印象が漠然とあるのですが、またご意見をきかせて下さい。

カガミ | 2009年07月02日 02:41

ニシさん、すいません。
実はレスが一回ブラウザの不調で消えていまして、記憶をたよりに要点だけを書きました。以下に改めて書きます。

まず私の警察がらみの体験を言えば、泥棒に入られたときと若い頃の交通違反です。
家内が別棟で洗濯をして本棟に来ると客間から泥棒が出て来て「○○さんのお宅はここですか」と言い、家内が違うというと「この近所に○○さんのお宅はありますか」と聞き、知らないというとそのまま行ってしまうという事件でした。
家内にしてみれば、土足のままでしたから怪しいのですが、変に騒げば襲いかかられかねないので、泥棒に合わせたのです。こういう事件を経験すると警察はやはり頼りになります。
ただ、警察の都合で家内が目撃した犯人と違う人間を犯人にしたい警察の態度には不信感を持ちました。
おそらくは別の事件で逮捕された窃盗容疑者にうちの事件も容疑を重ねれば手間が省けるという事なのでしょう。

また、若い頃残業で真夜中にバイクで帰宅する際、警察に止められ執拗に尋問された経験があります。それ以来、警察が嫌いになり、つかまるたびに警察の不祥事を言い立てて、大声で警察に抗議します。大暴れしない限り、何十人いても警察は私に実力行使はできないわけで、その意味では怖い体験をした事はありません。

やはり権力と言えども、日頃から国民が正しく(私の場合は除く)臨むのが基本だと思います。

冤罪問題はアメリカなどでは捜査状況もビデオ撮影が必要らしく、全面的な可視化と尋問での弁護士の立会いは必要でしょう。
そのような要件のもと権力を容認する必要は感じます。

>「国家に(例えば)共同体の敵の排除を担わせて良いんですか?そこに不安はありませんか?」

まず現在の法は社会的価値観の毀損は認めず、あくまで個々の人権の毀損を問題にします。これに基本的には異議はありません。
但し殺人、それも特に異常な殺人だけは例外とします。

その意味で上記は殺人犯がどのような共同体的価値観を損なうのかと考えた方が良いと思います。
殺人の多くは家庭内で起こります。
介護疲れや引きこもりでの親子間の殺人には比較的同情の目で見られるでしょう。

問題は集団暴行によるもの、変質者によるものでしょう。
犯行の残虐性、虚無性、異常性という質の違いをどのように判断するかの問題になります。

どこで線を引くかの問題もありますが、このような残虐性、虚無性、異常性に国民は慣れ、冷静に教育刑あるいは目的刑を科すのが妥当とは到底思えません。
あまりに国民に寛容性を強いている(特に遺族)と思います。

日本が比較的治安が保たれているのも、残虐性、虚無性、異常性を憎む比較的穏やかな国民性が影響していると思いますが。

元々、法は人々の日常から生じたものです。しかし日本の場合、明治維新や敗戦で、そのつど異なる外国の法が移入されたわけで、西欧の流れをそのまま受け入れる必要はないと思います。


まぐ | 2009年07月01日 10:12

まぐさん
私の質問が悪かったのでしょうか。あまり話がかみ合いませんね・・・。まぐさんのご指摘を踏まえて、再度質問しますと、以下のようになります。お時間がおありでしたら、回答してください。

「国家に(例えば)共同体の的の排除を担わせて良いんですか?そこに不安はありませんか?」

カガミさん
>「時間」もそうですし、「生命」だけ特殊というのは、それだけでは説明不足

確かに。
このご指摘に対する応えは保留させてください。考えてみます。

ニシ | 2009年06月29日 23:22

まぐ です。
私の拙い書き込みに反応して頂き、ありがとうございます。

>存在さん
>もっと言うと、純粋に学問的に考えていながら、結果的に権力者にとって都合のいい結論を吹聴してしまうのは悲しい
>仮に反論しているんだったら、それは違うと言いたい。

私は国家は正当的であれとは思いますが、抑制的であれとは思いません。
というのも私は人間にそれなりの倫理性しか求めないからです。
そのような人間の自由の調整は今のところ強制力、つまりは暴力を国家に独占させ、それを国民が法により規制するしかないと思っています。

>ウマ2さん
>人々の間に生まれた「ビヒモス」という名の猜疑心。それを殺さないと「万人による闘争」が
起きてしまうからです。それと(現在は)「他国のリヴァイアサン」。
人は殺せないのです。人を殺せるのは人だけです。

ホッブスの主張を一種の社会契約説と考えると違和感が生じます。
一つはルソーは死刑を肯定している事。
もう一つは社会契約説はフィクションからスタートしている事。

別な面から言えば、西欧圏が応報刑になじまないのはキリスト教の予定説がかなり影響
しているのではないかと思われる事。
小室直樹によれば、神の予定(各人の救済、断罪)は人知が及ばない。
一方、仏は人と同様に因果律の法則が及ぶ世界に存在している。
善因善果、悪因悪果に近しい日本人は応報刑に近しい。
しかし、予定説に近しい西欧圏では人知が定める応報刑にはならず目的刑になる。
人をして悪から遠ざける行為が人間がすべき領域となる。

>ニシさん
>ホッブス流の政治思想の観点からもなされていますよね。こういう観点からの死刑反対論について〜

上記したように西欧圏は応報刑になじまない事を前提として、近代国家では生産性の上昇のもと個人の自由度は上がり、価値観の多様性も増します。
これにより社会的価値観が中和される結果、生を至上とするしかなくなります。
ここで生を至上とする為に死を用いるのでは矛盾を生じます。

これに対して日本のような海に囲まれた比較的同質な人間の多い社会では同一の価値観が存続しやすくなります。
まして日本の場合は外発的に近代化が為された結果、共同体的な価値観が強まります。従って、価値中立的な生そのものよりも、共同体の敵の排除というような社会的
価値観が重視されたり、因果律が上位となったりします。

>カガミ さん

デリダのサイト、興味深く読ませて頂きました。ここから引用すると
>それらの点をこれこれの新制度の提示によって一気に払拭することは, おそらく不可能だろう. にもかかわらずデリダがこの作業を遂行するのは, 死刑制度維持の論理に加担してしまっているものをそのつど問い糺すことによってしか死刑廃止論に力を与えることはできないからだ.

と、ともすれば加担してしまう論理を絶えず問い直しているわけで、困難性のニュアンスも感じられて、空虚なレトリックとまでは評せないのではないかと思います。

>「生存権」は、人間らしく生きる権利であり、単に生きる権利ではないのですから。

しかし、国際人権規約第6条1項によれば「人は全て、生まれながらにして生きる権利を有する。この権利は法によって守られるべきである。誰もこの権利をみだりに奪ってはならない」
カガミさんの場合日本の憲法第25条1項における「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」から特定しているのではないですか

>「加害者にもし自分がなったら」というのも、意味不明でミスリーディングではないでしょうか。

被害者、加害者が主張できる論理ではないので、普遍性という意味合いに置いて拙いのでは。

まぐ | 2009年06月28日 23:33

【死刑制度】【カガミ → ニシ さん】

こちらこそ、レスありがとうございました。

まぐさんが紹介されていたサイトから、私が引用した部分ですが

> 冤罪の可能性によって死刑を否定すれば、裁判そのものの否定になる

「死刑」が取り返しがつかないのは十分承知していますが、でも「裁判そのものを否定」してもいいのですか?と問うていると、私は理解しています。

この部分は、それなりに説得力を持つ言葉だと思い、投げさせていただきました。

また、取り返しがつかないものは「時間」もそうですし、「生命」だけ特殊というのは、それだけでは説明が足りないように感じます。

カガミ | 2009年06月27日 23:39

カガミさん

レスありがとうございます。

ご指摘の点については、
死刑の特殊性「死刑が冤罪だったら、それは取り返しつかないの間違いになる」
と述べている通りです。

ニシ | 2009年06月27日 20:49

岩井奉信氏は、第三者委員会でも、小沢氏側から国民への「説明責任」があると、国民の代弁者という立場をふりかざして主張されてましたね。

http://www.videonews.com/press-club/0804/000976.php

「匿各 | 2009年06月27日 04:46」さんの引用されている箇所ですが、同じロジックです。

> これだけゾロゾロ出てくるようでは、・・鳩山氏には説明する義務があります・・
> 合理的な説明ができなければ・・政治資金規正法違反に問われる可能性もあります

岩井奉信氏の立場は一貫されていて、分かりやすい。

れざ | 2009年06月27日 10:55

鳩山さんの故人献金、偽名献金についてマスメディア、主にテレビはあまり報じていませんね。
(今現在で朝日、読売、共同、日テレだけ。)

以前マル激に出演された岩井奉信先生は
「資金管理団体側のマネーロンダリングが、真っ先に疑われますね。
大口の献金を貰ったが、法定上限を超えていた。それを完全に裏金扱いするのはさすがにマズいと考え、適当に支援者名簿の中から名前を借りて小口に分散させた。
いずれにせよ、これだけゾロゾロ出てくるようでは、単なるミスでは済まされない。
立派な虚偽記載です。鳩山氏には説明する義務がありますし、合理的な説明ができなければ、事務所ぐるみの工作と言われても仕方ないでしょう。政治資金規正法違反に問われる可能性もあります」
とおっしゃています。

与謝野氏の問題の報道量の差をみるにつけマスメディアの偏向報道姿勢は相変わらずと感じます。

匿各 | 2009年06月27日 04:46

× <死刑制度?>
○ <死刑制度1>: 正確には、マル括弧つきの”1”

カガミ | 2009年06月26日 09:43

存在さん達に続いて、まぐさんがご指摘のページの感想をば。

> 巷の死刑廃止論を論破するために偉い学者を引き合いに出して・・・

存在さんの印象通りで、出典を提示せず、引き合いにするやり方が非常に恣意的だと思います。
松葉祥一氏などは、<死刑制度?>のページでは「通俗的人権派」と勝手に変換されてます。

> 通俗的人権派に云わせれば、死刑制度は、「殺すな」という
> 倫理的に無条件に正しい命令に反するから悪だとされている

カントやデリダも、かなり恣意的に用いられています。
たとえば、<死刑制度?>では、以下のような記述があります。

> 報復感情否定論も、死刑の根拠が報復感情
> にあるのではないというカントの議論に持ち
> 堪えないのは、あのデリダでさえ認めている。

つまり、デリダが言ってるからとカントを肯定しているわけですが、これは空虚なレトリックに過ぎません。
カントは死刑肯定ですが、デリダは明確にカントを否定し、脱構築的な批判を行っています。当然、カントを継承するヘーゲルも批判の対象に含むものです。しかし、デリダの批判は取り上げられず、逆に名前だけがカントを補強するために引き合いに出されます。

http://www.miraisha.co.jp/derrida/today.html

また、<殺すなという命令>では「生存権」という鍵概念が誤使用されて、議論の根が抜けてます。
「生存権」は、人間らしく生きる権利であり、単に生きる権利ではないのですから。

あと、「加害者にもし自分がなったら」というのも、意味不明でミスリーディングではないでしょうか。

光市の加害者だったなら、自分ならこう思います。
・自分が犯罪を犯したのには理由がある
・外傷による発達障害で、12歳の知能のまま社会に適応することを強いられた
・自分を受け入れてくれる場所はなく、犯罪という逃げ道しか与えなかった社会に責任がある

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ニシさんは、冤罪を理由に死刑反対といわれていますが、
ニシさんが面白かったというこのHPの<死刑制度?>に、反論があります。

> 冤罪の可能性による死刑反対は、死刑制度そのものの
> 問題ではなく、そのプロセスの問題であり、冤罪の可能性
> によって死刑を否定すれば、裁判そのものの否定になる。

ニシさんは、上記を読まれて逆にどのように考えるのでしょうか。

カガミ | 2009年06月26日 09:12

まぐ さん

コメント拝読させていただき、大変勉強になりました。ご紹介くださったHPも面白かったです。

HPの趣旨は、「死刑反対論は宗教的観点からなされがちだ。しかし宗教と行政は切り離すべきだ。よって死刑反対論に与することはできぬ」というものでしょう。まったくもってその通りだと思います(特にバカ法務大臣批判のくだり)。

しかし死刑反対論は宗教的観点からのみなされているわけではなくって、ホッブス流の政治思想の観点からもなされていますよね。こういう観点からの死刑反対論について、まぐさんはどのように思われてますか?

先に私の考えを言うと、私は今までに「プチ冤罪」とでも言うべきものを幾度か体験したことあります。例えば学校でモノが壊れたときに教師から疑われたり、路上でいきなり警察に職務質問されたり。私の経験談に過ぎないのかもしれませんが、有無を言わさぬ感じで、つるし上げられるっていうのは結構きついものでした。実際に(刑)罰を食らったわけではありませんが。

こうした経験から「国家権力っていうのはすげぇ怖い」と思うようになりました。また「教師・警官はかなり先入観に毒されて仕事してるんじゃないか」という危惧を持つようになりました。

こうした経験に死刑の特殊性「死刑が冤罪だったら、それは取り返しつかないの間違いになる」って点を加味すると、やはり死刑はやめたほうが良いのではないかと思わざるを得ません。ちょっと妄想っぽいですが「いつか自分が冤罪で死刑になるかも」「知人が冤罪で死刑になるかも」って思えちゃいます。

よって、私は死刑反対です。また少なくとも私のような人間にとっては、死刑反対は一部の学者コミュニティ内部に留まるものではなく、それなりに生活・人生と切り結ばれた意見です。

どう思われますか?

ニシ | 2009年06月26日 06:38

最近このコメント欄で死刑廃止論者が、
頭のおかしい死刑推進論者を装うという
姑息な真似をしてますね。
私自身、死刑は廃止すべきだと思いますが、
はっきりいって見苦しいです。

無記名 | 2009年06月26日 00:22













世の中には人を殺すことを職業にしている輩がいて、二人殺すと死刑になることを十二分に意識し、二人目はできるだけ証拠を残さないようにしている。つまり、殺人はなかなか難しいのでそれが抑止効果にはなっているのですね、死刑制度が。国民の負担、経済的効果も少なくないと思っています。

今夜も寝る前に | 2009年06月25日 22:36

【死刑廃止論について】
「存在」さまに賛成です。「まぐ」さまご紹介のページの制作者が不思議なのか、松葉祥一氏なる人が不思議なのかは分かりませんが…人は人を殺すのです。ただし条件がいるのです。例えば、強姦されて妊娠してしまった場合。「あんな奴の子供を産みたくない」と思うことが悪なのか。殺人なのか(そんなわけない)。「中絶」です。殺人ではありません。
例えば、殺されそうになったとき、相手を殺すことが殺人なのか(そんなわけない)。「正当防衛」です。殺人ではありません。

では、リヴァイアサンは人を殺せるのか。ダメです。リヴァイアサンが殺せるのは2つ。人々の間に生まれた「ビヒモス」という名の猜疑心。それを殺さないと「万人による闘争」が起きてしまうからです。それと(現在は)「他国のリヴァイアサン」。
人は殺せないのです。人を殺せるのは人だけです。

死刑廃止論者は「人を殺すな、という倫理的命令を無条件に正しいと考えている」わけではないのです(そういう人もいるのかもしれないけど…)。
誰が犯人だか分からないと「お隣の人じゃないかしら」と、みんなが安心して住めなくなります。これがビヒモス。犯人が逮捕され隔離されれば、それだけでビヒモスはいなくなります。そこでリヴァイアサンの役目は終了します。隔離された人を殺す必要はないのです。改心した人を隔離しておく必要もないのです。
だけど、我が国のリヴァイアサンは少々ものぐさで、あらかじめビヒモスを現れにくくする目的で「見せしめ」をしています。生贄は誰でもいいのですが、「どうせなら民衆が殺せと叫んでいるヤツにしておけば、民衆もヨロコブだろう。正しいことをしているという印象も与えられるしな」。それが死刑であると考えています。リヴァイアサンによる「ディスプレイ」チカラの誇示による扮装の予防です。昔は「切り捨て御免」だったのです。本当に生贄は誰でもよかったのです。
しかし、近年、その根拠さえも怪しくなってきています。「ビヒモス予防効果がないんじゃないの?」と思われ始めました。

死刑存置論をお持ちの方には、こちらの論理を崩していただきたいと思います。そうすれば、そちらに賛成いたします。確実に効果があるなら、残しておいてもいい気もするし…

ウマ2 | 2009年06月25日 19:30

まぐさんがご指摘のページを読んでみたが、マル激の議論と噛み合ってないような気がし
た。その違和感の理由を以下に考えてみた。

思考のスタートラインが違う。
あのページの人は「殺すな!」という倫理的命題から出発している。
そして、その命題の不可能性を論じて見せることで、結果的に死刑廃止に反対している。
しかし、マル激での神保宮台両氏(特に神保氏)の議論を聞いてると、スタートラインは
「国家権力の行使は抑制的であるべきだ」という命題(ジャーナリズム的命題とでも言お
うか)である。
したがって、たとえばあのページの死刑と中絶を対比させる議論は少なくとも神保氏は関
心が薄いと思われる。なぜなら、神保氏の関心の中心は「殺すこと」ではなくて「国家権
力を行使すること」だから。死刑は国家権力の行使だが、中絶は個人の選択である。

そして、当然ながらどちらのスタートラインが正しいということはない。
ただ、権力を監視するジャーナリストの立場から発言している神保氏に対して、倫理学的
に反論することは無意味だと思う。
もっと言うと、純粋に学問的に考えていながら、結果的に権力者にとって都合のいい結論
を吹聴してしまうのは悲しい(意図的にそうしているなら好きにすればいいが)。
まぐさんは反論しているのではなく、こういう見方もあるよという感じでリンクをはって
いるのだと思うが、仮に反論しているんだったら、それは違うと言いたい。

追記
しかし、まぐさんの貼ったリンクのページの人は、誰だか知らないがおもしろい奴である
ことは確かだ。「死刑制度の問題は...興味をそそらない」という書き出しで始まるにも関
わらず、3つも記事を連載して、書いてるうちにだんだん興奮してきて、3つ目の記事では
ついに赤字使ったり文字サイズ変えたりして発狂しているw。要は死刑廃止論者が生理的に
嫌いで、巷の死刑廃止論を論破するために偉い学者を引き合いに出して議論を組み立ててい
る印象だ。たいしたことない。と私は思うが、ほかの人はどう思うだろう。お時間あればぜ
ひ読んでみてください。

存在 | 2009年06月25日 17:23

鳩山代表の故人献金問題、偽名献金問題はかなりの大問題になりそうですね。
小学校の恩師らの名前を勝手に収支報告書に記載したとか。

事実なら確実に政治資金規正法違反ですし、岩井奉信さんによるとマネーロンダリングの疑いも考えられると。

もし出所の明らかにできない金を他人名義で寄付されたかのように偽装していたなら代表辞任どころか議員辞職でも済まない問題でしょう。

わいわい | 2009年06月25日 13:17

確かに、あのGoogleの最初の画面を見たときにはびっくりしたなあ。
この問題に関して番組を見るまでたくさんあった様々な疑問の中で、一番不可解だったのは、Googleがなぜこれほどまでに挑戦的ともいえるで続きを用いたかと言うこと。つまり、まずスキャンありきであらかじめスキャンして公開しておいて、そしてその後に著作権の権利処理にあたるということ。
どんなに、アホな企業でも普通、ド利害関係人である著作者や出版社にたいして何らかのコンタクトなり論議をふっかけるなりアクションをし、その反応を見て後の戦略をたてるはずであるが、それを全くしなかったことは、そのことによって必ず引き起こされるある種のスキャンダルを最大限膨らませるための戦略ではなかったのだろうかと。
つまり、最大の広告効果を狙い、このように巷のそこかしこで議論されることまでも、というより、こと自体を織り込んでのこれらの振る舞いであるとしたら、本当に、恐ろしい企業だなあ。

伏見のヌルハチ | 2009年06月25日 10:21

>G氏
>俺にはそんなことはできない。そんなこというやつは人間じゃない、殺していい。どんどん死刑ね。
ってことでしょ。そうやって鬼畜イメージを膨らませて噴き上がるのはいい加減にしたら、と宮台氏は言ってるんじゃないですか。<


吹き上がっているのは貴方の方じゃないかな。私の文章のどこをどう読んだら、そういう印象になるのか不可解だ。

要は、死刑廃止論は第三者だけが言えるお気楽な主張と言う事だろう。
日本においては、なんら必然性はない。
あるとすれば法学部関連の共同体で支持される主張という事だろう。

その主張の脆弱性に、今更ながら気づき危機感に後押しされて、G氏は吹き上がっているような印象が私にはあるが。

まぐ | 2009年06月25日 00:41

>正しいことなんて言っている奴などいないんだから。

でも、自分の言っていることは正しいと思っているんだろ。
その自分の考えを「正しい」と感じる根拠は何処にあったんだろうね。
それに無自覚な奴が何言っても、説得力もたない。

無記名 | 2009年06月24日 22:30

 臓器移植法A案が衆議院を通過しましたが、将来どのような形にこの法律が形作られるのか興味深い。
 A案の骨子は、
1 本人が生前に臓器移植に同意しない旨の意思表示をしていないと、家族の同意があれば臓器を摘出できる。
2 臓器提供者の年齢制限はなく、出生の瞬間から臓器提供者となる。
3 人の死は脳死である。
です。
 ところで、わたしたちは、身体とその人格や魂とをどのようにとらえているのでしょうか。ヨーロッパの先進国、ロシア、中国などでは、現在でも身分や階級によって異なるようにとらえています。王族、権力者、富裕層は例外なく墓を持ちますが、それ以外の者は墓を持っていないと考えています。公衆衛生上の問題から共同墓地というような焼却した灰を廃棄する場所は都市部にありますが、このような施設は墓でなく、伝染病などの蔓延を防ぐための灰捨て場であるのではないでしょうか。都市から離れた地域では、土に戻す。時間の経過とともに痕跡なきものとなる。墓はない。
 我が国においては、権力者の統治の道具である仏教が、身分や階級の差は存在したが、権力者、宗教者以外の人々の多くが文字を読み・書くことができた。そのため、権力者や宗教者の恣意的支配力は人の身体、人格、魂のありようまで恣意的に支配するには限界があった。
 わたしは、このように考えています。
 死んだ後も、死体に人格や魂が存在していると考える考える文化は我が国にとっては国民共通のものであるが、ヨーロッパ先進国、ロシア、中国などにおいては、階級身分によって異なる。脳死を人の死として、体温を感じる身体から臓器を取り出すという行為を進んで受け入れることを一般的な日本人にとっては容認しがたいことである。ただ、日本人にあっても、親子の人間関係が極度に希薄化していたり、コーディネータによって巧妙に命の大切さを客観的合理性をもって摩り替えられることに気付かないお人好しや他人に感覚的に共鳴し方々が臓器提供をする主な標的となる。これらの遺族であっても、総てが終わった後で、冷静になった時から取り返しのつかない後悔や身近な親族を間接的にであれ殺害したという贖うことができない心の傷を一生涯背負い込むこととなる。
 今後、我が国では、教育やイベントにより臓器提供を活発化させようとするだろう。教育者というのは、例外はあるが、権力におもねることこそ教育者としての重要な能力・資質である。教育の分野において、臓器提供を美化する教育に力が入れられると考えるのが自然な理解の仕方である。そういっても、新鮮な臓器数は不足するであろう。
 社会的に、個性ある働き方が良いような政策がすでに抗うことが不可能な程度にまで浸透ている。この社会的状況において、非正規労働者の多くが人間関係が希薄とならざるを得ないという特色がある。このことは、親子関係においてもいえることである。これらの方々が脳死に直面したときどう取り扱われるのであろうか。また、身寄りのない方たちはどのように取り扱われるのであろうか。違法・不正を掘り起こそうとしても、手がかりさえない深い闇が身近に迫っていることを認識しなければならない。
 大陸においては、先進国も例外でなく、教育の機会に乏しく、身分や階級において低位で死すれば身体は物となる人たちが圧倒的多数存在するのであるから、これらの者から臓器を取り出し移植するは行為に関して社会的に非難されない土壌が根付いている。人の社会的存在に、議論の必要性なく、臓器移植は認められている。
 我が国と大陸における、人の存在のありようの差違に注目しないとならない。

hitman | 2009年06月24日 20:23

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090623/trl0906231813014-n1.htm

//////////このニュース引用はじめ////////////////////
植草被告の敗訴確定 サンデー毎日の記事巡り
2009.6.23 18:13
このニュースのトピックス:民事訴訟

 車内で女子高生に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反の罪に問われた元大学院教授、植草一秀被告(48)=1、2審実刑判決、上告中=が毎日新聞社発行の週刊誌「サンデー毎日」の記事で名誉を傷付けられたとして、同社側に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(近藤崇晴裁判長)は23日、植草被告側の上告を退ける決定をした。

 33万円の支払いを命じた1審東京地裁判決を取り消し、植草被告側の逆転敗訴とした2審東京高裁判決が確定した。

 同誌は平成16年5月2日号で、植草被告について「セクハラ癖があり、業界では有名」などの記事を掲載した。
//////////このニュース引用おわり////////////////////

MSN | 2009年06月24日 15:47

マル激の本が電子書籍として出版されたら買おうと思っているのですが、そのような予定はないでしょうか?
紙の本と同じ値段で買います。

本の形態がデジタルになると、質が保てないのではないかという議論がありました。
懸念は的外れではないと思いますが、最後のアウトプットのところをデジタルにもしてくれればいいだけのような気もします。

現在でもまともに編集されていないケータイ小説が紙の形で出版されていますよね。私は読む気になりませんけど。

本がデジタルデータで流通することが環境にとっていいことだという話が、マスコミに出てこないのは当然として、ビデオニュースでも語られたことがないような気がするのですが、実はそれほど意味が無いということなのでしょうか?

電子ペーパーが早く実用化してほしいです。

catfood | 2009年06月24日 12:09

ネットなんて嘘ばっかり
↑これ真顔で言ってるんですかねwww

無記名 | 2009年06月24日 02:18

ネットなんか真面目に研究で使ってるやつとか頭おかしいんじゃないかな。
ウソばっかりの情報ばっかりで。
要するに単なる暇つぶしとか特定の思想を垂れ流すためにインターネットを使っているだけの話で利用者もテレビはもう特定の人間用にしか作られないし、他に金かけたくないし、外いくのめんどくさいから暇つぶしで見ているだけ。
掲示板もブログもSNSも日本は全然根付いていないんだから検索以上のサービスが利用されるはずないじゃない。
日本人なんて情報にまったく無頓着。活用しようなんて思ってる人なんていません。だから振り込め詐欺とかで引っ掛かるんだろうが。

無記名 | 2009年06月23日 22:16

人を支配するための装置としての学問。昔は宗教が世界を支配していたのを活版印刷ができて皆がその支配装置を手に入れた。そして支配の器がマスコミであったり、高度な学問であったり。とにかく人を支配するための道具が必要であるだけ。人を支配して利益を独占するためにあるとあらゆる論理が動員させられる。
愚鈍でも実直に生きたほうがよっぽど有益。へたに知恵をつけて人を支配しようなんて思い上がりもはなはだしいと思わないのか。
グーグルとマスコミと器が違うだけで全く変わらない。だからグーグルなんて使わないし、テレビなんてみないし、常に言論で飯を食っている人間なんて皆うそつきだと考えるほうが妥当だな。正しいことなんて言っている奴などいないんだから。ただ誰かの利益を代弁しているだけで、要するにスポンサーの代わりに口パク人形している。昔は「そんなの当たり前」とかわけのわからん言い分を振りかざしていたバカばっかりだったけど、経済危機が表面化して嘘ツキどもは何も言えなくなっているというわけですよ。
利害関係者がその利害を堂々と言う分にはそいつらが何言っているかわかるけれど学問とマスコミとかあたかもさも正しいみたいなこと言って。だから信用されない。もちろんグーグルが言うことなんか誰も信用しないし、そもそもグーグルとか検索してるだけってことでそれ以上の利用なんかを日本でするわけない。何度も言ってるけど。
宣伝も批判めいたことを言いながら宣伝したりする方法もあるからその類の番組でしょ?この番組って。ここで出てきてるゲスト必ず朝日新聞とかテレビ朝日とかに順ぐりで出てるしね。
朝日ジャーナルが「いろんな立場を載せる」とか言って変な気違いの垂れ流していたのとおなじ構成の番組でしょ。

無記名 | 2009年06月23日 22:04

>自分で経験できることくらいだろうさ、正しいなんてことが言えるのは。

「学者の言っていることがプロパガンダ」を正しいと判断するには、どんな経験をすればいいのでしょうか。
それを教えてほしい。
想像がつきません。

それにしても、文が読めないというのは、困った物ですね。

「社会学」は、「経済学」でも、「農業技術」でも何でもいいんだぞ。
それが分かるように、写真のライティングの例も示しているのに。

もしかしたら、文章が読めないだけでなく、自分言っていることの意味が分かっていないかも。

無記名 | 2009年06月23日 16:04

>加害者にもし自分がなったなら、果たしてこのような主張をできるか、どうかも考えた方がいいのだろう。

俺にはそんなことはできない。そんなこというやつは人間じゃない、殺していい。どんどん死刑ね。

ってことでしょ。そうやって鬼畜イメージを膨らませて噴き上がるのはいい加減にしたら、と宮台氏は言ってるんじゃないですか。

G | 2009年06月23日 13:59

不存在の密約で有罪ワロスwwwwww


あと、本編の司会のこの人は誰?
神保と違ったタイプで良いな^−^

神保:俺(神保)の(個人的な)疑問を問いただす
今日の人:交通整理しながら違反車の存在を浮き立たせる


神保が悪いって言ってるんじゃないぞ^−^
どっちも良いぞ^−^

無記名 | 2009年06月23日 13:30

http://www.citizentube.com/
ここに集う皆さん。
視て下さい。 そして伝えて下さい。

rice_shower | 2009年06月23日 12:50

>>社会学について独学で勉強しようとすると、自分で本を買うか、図書館に行くほうがいいわけ。

社会学とかいうのを勉強した人間がマスコミに行ったりするんだよね。
そんでウソばっかり言って、人をだまして、企業から金もらって寄生虫みたいに生きていくわけ。
社会学が学問とかいまどき言ってる人間なんかいない。そんなものをあたかも正しいみたいに考えて祭り上げてきたのが戦後民主主義なる幻想。幻想というか嘘つきが生きのびてどうすることもできないから新しい嘘考えて人をだまくらかしていただけのことで。
いまどき本を読んで「これこそ正しい」とかいてるやつは「はあ?」
って感じ。おめでたいというか。
ただのプロパガンダをさも正しいみたいに言って。金融工学とか詐欺を正当化するための理論だったんでしょ?
哀れだと思うね。もう学者風情の言うことなんかね、ただのプロパガンダなわけ。
自分で経験できることくらいだろうさ、正しいなんてことが言えるのは。

無記名 | 2009年06月23日 11:59

>配信記事読んでればそれだけで十分でしょ。

う〜む。困った人がいるものだ。
なんか勘違いしてるよね。


社会学について独学で勉強しようとすると、自分で本を買うか、図書館に行くほうがいいわけ。
写真のライティングについて独力で勉強しようとすると、本を手に入れないと、ほとんど分からないよ。

本を手に入れるにしても、本があることを知らないければ、どうにもならないわけで、それらのためには、グーグルであったり、アマゾンが役に立つの。

あ、自力で何かを調べたり、勉強しようとしない人には無関係ですね。
その意味では、多くの人には無関係かもしれません。

無記名 | 2009年06月22日 21:52

電話やインタビュー映像を使うと、Nコメのクオリティが高まりますね。普通のニュース番組を観ているようです。
今回の様な番組づくりを続けていって下さい。(毎回は無理かも知れないけど。)

ねこじゃらし | 2009年06月22日 21:50

解説の冒頭に
「街中を写真に収めて回るストリートビューや空から世界中が見えてしまうGoogleアースなど、これまであり得なかった画期的なサービスで物議を醸してきたGoogleが」
とか書いているけど
「はあ?」って感じ。
あんなの全然使ってないし。パソコンをダシにしている企業がもっと儲けるために意味のないサービスをつくっているだけ。アマゾンとかなんとかよくわからんけどそんなのだってそこまで使っているわけでもないし、便利便利みたいなこと言ってるけど送料とかなんとかかかるとかあったり結局そんなに便利になってどうするのかねという感じで別になんてことはない。
かといって既存の出版業界がどうのこうのとかも、そもそもそんなに今本なんか読んでる人いないし。パソコンで
配信記事読んでればそれだけで十分でしょ。それだけで山ほどあるんだから。図書館に行くのはパソコンが使えないじいさんばあさんと学者かなにかで、大多数の人は携帯の配信記事とか見るだけで結構です。その分テレビのニュースみないだけ。
テレビ局なんか嘘ばっかり言っている気違いばっかりとキモい芸人とか頭の悪い気違いばかりだから何か調べたければソース元(省庁なら省庁、自治体なら自治体)にアクセスしてある程度のアタリはわかるからわざわざニュースみて嘘ツキの発言なんか聞かなくてもいいわけ。
グーグルとかいうのも全然使ってないし、黒船黒船とか馬鹿じゃないの?
ウィキペディアだって殆どの人は知りませんけど?

無記名 | 2009年06月22日 16:42

「利用者に利益がある」「フェアである」という迫り方が、いつものアメリカ的交渉術のようで、ちょっと嫌な感じです。日本の出版業界が、シャッター街のようになりませんように。すでに出版業界は苦境とのことだから、黒船に対抗する体力はなく、受け入れて変わるしかないんでしょうけれど。

モノ的にはグーグル所有のハードディスクにデータが収まるという話ですよね。グーグルの検索サービスは、この先も無料なのでしょうか。マーケットを独占したあとで有料にされたら、困っちゃいますね。

かんぽ | 2009年06月21日 22:27

Nコメに関して
宮台氏の死刑制度の発言を受けて、しばらくネットで資料を探しながら考えました。もっとも納得できたのが以下です。
http://www.geocities.jp/kanakotoshujingo/
現代倫理のパフォーマンス の刑罰欄
「殺すなという命令」「死刑制度」

死刑制度を巡り、欧米圏(米国の宗教右翼を除く)とその他の地域を隔てる大きな違いは聖が何らかの形で社会で機能しているかどうかというもの。
欧州の世俗社会では既に神は死んでいる。また多くの戦争経て、ついに人間の生以上の価値観を見つける事ができなかった社会では、人の生命の生死を判断できず、生存権が最上位の価値観になってしまう。

従って生存権が最上位なら国による殺人も許せないという事になる。
しかし一般に死刑廃止を訴えるリベラル派は同時に中絶を認める傾向にある。ここで生存権の定義が問題になるが、結局、生物としての人間の生命と人格の生命を分ける事により矛盾を回避せざるえない。

これを前提にすれば、先進国は死刑廃止の流れになっていて、日本は取り残されているという意見はそこの浅いものとなる。

次に宮台氏の発言「死刑存続論者が被害者の家族に感情移入するなら、菅家さんや既に死刑に処された冤罪者のことも感情移入して、死刑の是非を考えて欲しい」(記憶による)を考えてみる。

確かにこういう事案を知るにつけ、菅家さんの悲惨さは耐えられないと思う。また検察リークによる人間像には疑問が出ては来た。しかしやはり、冤罪は冤罪で回避の努力をすべきだという思いには変わりない。
そして光市母子殺人の犯人のような者には死刑が妥当であるという思いも変わりない。

「現代倫理のパフォーマンス」での「立場を置き換えた死刑論」が興味深い。
死刑廃止論の主張を加害者が主張する事は可能かと問う。「私を殺しても殺人は減らないから、私を死刑にすべきではない」
「国家が私を死刑にするとはおこがましい」「被害者の家族は私と交流する事により心の傷を癒すべきだ」

加害者にもし自分がなったなら、果たしてこのような主張をできるか、どうかも考えた方がいいのだろう。

まぐ | 2009年06月21日 21:05

神保さん、宮台さん、また、投稿でメチャ時間かかって、以下のメッセージが出てエラーになりました。

Internal Server Error
The server encountered an internal error or misconfiguration and was unable to complete your request.

Please contact the server administrator, root@videonews.com and inform them of the time the error occurred, and anything you might have done that may have caused the error.

More information about this error may be available in the server error log.

投稿するのが億劫になります。改善をお願いします。

ゴンゲン | 2009年06月21日 20:21

神保さん、宮台さん、真っ当ですよ!
 民主党びいきと言うよりも、現在の政治体制がどうしようもないから、”政権交代”で替わってもらわないといけない。そう言うときに、自公政権よりましで、現実味のある民主党に期待が行くと言うだけと思います。
 個々の内容では、非常に時事問題で判りやすく、論理的に整理頂くかたちなので、本当に勉強になっています。また、小沢氏問題、足利事件(DNA鑑定)、ビデオニュースで、大きく認識が変わりました。
 Nコメを無料にして、一般に開放するのは、大大賛成です。多くの人に知らせたい内容ばかりです。

ゴンゲン | 2009年06月21日 20:12

【沖縄密約問題について】
情報公開が一歩進んだこと、素直に喜びたいと思います。

この問題、
●そもそも国家は国民に知らせない「密約」をしてもよいのか。(人間関係ならOKだが…)
●「密約」を知らせる範囲は閣僚まででとどめるべきか、それとも議員まで広げるべきか。
●「密約」が有効な期間は設定可能か。(政権をまたぐ約束ができるのか)
●「密約」が相手方から一方的に解かれた場合、どのように対処すべきか(どのようなペナルティを契約に盛り込めるのか)
●「密約」を守るために課される公務員(議員も含む)の守秘義務はどれほど厳しくされるべきか。
など、色々考えさせられます。

この問題を機に、密約の取り扱いについてのルール化が話し合われることを期待したいと思います。

ウマ | 2009年06月21日 13:04

日本の司法について、良いニュースと悪いニュースがありましたね。沖縄密約が公開されていくことを喜びたいと思います。
この問題は情報公開の問題とともに「外交」の問題も浮き彫りにしたと思います。国家間でも(人間関係と同じように)国民(他人)に知らせない「密約」をしてもよいかどうかが、まず微妙です(僕はあってもよいと思います)。仮によしとする場合は「お互いが密約であることを自覚している」「国民に秘密にしておく期間(永遠も含む)が設定されている」「秘密保持期間内で情報を公開するときは相手の同意が必要である」「約束が一方的に破られたときのペナルティがある」等の条件が必要です。今回の件は、その条件があいまいだったことに端を発しているのではないかと思います。
条件がそろっていたとすれば、アメリカの公文書館で密約が公開されたことに対して「何で勝手にバラすんだよー。言わないって約束じゃないか。ナメてんのかよー」と抗議するのが当然ですし、日本側で秘密をバラした公務員が処罰されるのも当然かなとも思います。
なにも条件がなかった場合は、相手国で公開された時点で「密約」じゃなくなるので、その時点で即刻、情報公開しないとあとでイタイ目にあうという教訓が残ったのかな、と感じました。
あと、たとえ国民に知らせない密約があったとしても、議員には全員に知らせてほしいと思います。公務員なんだし。そのかわり漏らしたら正当な手続きで厳罰に処されるとしてほしいです。

ウマ | 2009年06月21日 12:03

愚昧な田吾作w
特に9:11

無記各 | 2009年06月21日 11:45

都議選、テーマにしないの? このままだと、新銀行に反対する市民が賛成した都議会民主党に投票していくということになってしまう。

白魔女さん | 2009年06月21日 11:04


みなさまおはようございます。今回公判で西松建設偽装献金の主犯は、小沢一郎本人であることが判明いたしましたね。難しかったこの事件の捜査でそれを明らかにした東京地検特捜部に、善良な国民の一人として私は心からの拍手を送ります。利権誘導型政治家小沢一郎は、今日まで国民を騙していた事を謝罪し全ての職を辞すること。それこそ民主党を逆に輝かすことになる唯一の方策だと思います。マル激のように小沢一郎を弁護するは、古臭い経世会的反動勢力を蘇らすようなものであって、恫喝政治家小沢一郎を弁護する宮台先生の立場は完全に間違ったままですね。ボタンの掛け違い贔屓の引き倒しだよ。小沢一郎は法的な問題よりまず政治家として真っ先に国民、ならびにメディアと完璧なコミュニケーションを取るべきでしょう。それから逃げている小沢一郎は真っ黒であって、それは政治家として万死に値すると思いますね。東京地検特捜部はあたりまえの仕事を果たしただけです。小沢一郎の子分だった二階さんもこれから証拠を固めてしょっ引いてください、特捜部さんお願いします。メデァのみなさんも。ではまた。

うえるねす | 2009年06月21日 09:11

Nコメで神保さんが紹介していた Wasserman の風刺画を見つけました。
http://cli.gs/JPH5NT

tawi | 2009年06月21日 08:21

「Googleブック検索」サービスがこんなに簡単に認められるなら、同様にコンテンツを直接参照できるという意味で、音楽や映画などはどうなってしまうのか。なぜ書籍だけなのか。あらゆる著作物やメディアに波及する可能性もあるのか。今回は書籍の話だけだったので、どなたか可能性についての情報などよろしく。音楽や映画の内容が検索できたらユーザーには便利。まあ、データ量の問題で考えればとりあえずテキスト関連、音楽や映像データも時間の問題ということか。

匿名 | 2009年06月21日 02:40

「民主党はいよいよメディアを敵に回した」というけれども、そんな大ごとですか?

民主党の支持率は上々じゃないですか。メディアも経団連も官僚もそうですが、もう力を失ってるいうだけのことでは。

熊五郎 | 2009年06月21日 02:34

とりあえず、法の不遡及について学ぼう
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%B8%8D%E9%81%A1%E5%8F%8A

まぁ、こういうことも本来義務教育で教えるべきだよね

憲法、民法、刑法は義務教育にしないといかんね

メディアの西松裁判報道はどこも薄っぺら過ぎてだめだこりゃ、って感じでした(第三者委員会の報告を読んだ形跡はまるで感じられず、検察の言い分を流すだけ。NHKしかり)。
報告書は、メディア批判結構強かったんで(産経のひどさはよくわかった)、ホリエモン報道と同じで結局自分はカワイイで、既得権益が少しでも侵害される可能性あるなら、その点に一切触れないって感じ。
政治家、官僚批判してるけど、マスコミも一緒だわ。

アラサーリーガルリーマン | 2009年06月21日 01:48

この問題、以前から今一何が起こっているのか判然としないままもやもやしていましたが、初めて、この問題性、事件性の全貌が、少しずつわかってきた気がします。
少なくともGoogleがクソ頭いいのはわかりました。

>>無記名さん
>もう一回起訴
されないはずです。
「罪刑法定主義 法治主義 自由保証機能」このあたりをGoogleで検索したら詳しいことがわかります。
新たな視聴者の方でしょうか。マル檄では超頻出概念ですので調べてみるとおもしろいですよ。
しかし、こういう日本という社会の仕組み、あり方で極めて重要なことって、高校ですら教えられませんよね。
政治経済の学習指導要領をチラ見してもほとんど書いてなかったと思うので全国の高校でも教えられていないと思います。
文科省のおっさんたちも、がんばっているとは思いますが、もうちょっとなんとかしてほしいですよね。

しかし、教育の問題にしてもメディアの問題にしても、悪い悪いと批判ばかりしても問題解決されるまで長い長いラグがあるわけですから、我々、誇り高い日本国民が一人一人、こういった数少ない優良メディアを足がかりに自己統治、自己実現を主体的に補完していくしかないですよね。そもそも、教育の問題にしても、政治の問題にしても、過去のおっさんやおばさんたちの無批判、無軌道ともいえる投票行動の帰結でもあるわけですから。
ですから、無記名さんも、これから一緒に勉強して、美しい国日本の再興に少しでも貢献できるようがんばりましょう!僕はまだ、参政権すらありませんけど。
 今回のGoogleの件で見えてくるアメリカの、世界の、発想力や革新性、歴史に対するパースペクティヴィティ、えぐいまでの交渉戦術能力を目の当たりにするとくじけそうにもなりますけど、がんばるしかないです。

>Nコメは無料配信
その気持ちわかります!
それでも一ヶ月後に開放とかにでもしないととうてい無理だとは思いますけど。ビジネス的に。
でも、気持ちはすごくわかります。
おっちゃんさんの思ってらっしゃる公共的な意味でもそうだと思いますし、 個人的にもクラスでたまに社会問題について話をしても、前提となる問題意識とかが、一般のマスメディアの情報しか享受できていない奴らとかとは、端から全く共有できなくて歯がゆかったりしますし。相手が賢ければ賢いほど悔しいです。
あと、うちの教科担任ではないけど違うクラスで公民科のおっさんがNコメのコピペのような論旨を展開して時事ネタをしゃべっているのが笑えます。高校生は決済の問題で聞いていないともっているんやろうけど、ちょっとお粗末ですね。


最高裁判事の国民審査の件、非常に興味があります。
超重要な制度なのに、明らかに機能していないですよね。
これこそ、メディアの怠慢だと思います。
罷免されたりはないでしょうけど、国民としてのメッセージをある程度反映させないと、一罰百戒という意味より、大変なプレッシャーの中、勇気ある判決を下してくださっている判事の方にも失礼だと思います。


伏見のヌルハチ | 2009年06月21日 01:04

法律が改正されたから公設秘書はもう一回起訴されるんじゃないの?
そうなればもう今度は逃げられないのでは?
知識人だからと言って捻じ曲げてはいけないんじゃないですか?
検察はボロボロになんかなっていないでしょ

無記名 | 2009年06月20日 23:14

神保さんにお願いです。
Nコメは無料配信した方が良いですよ。
なんというか、今回の内容とか普通の人の目に触れられないのはもったいない。もしくはYOUTUBEに専用番組作ったほうが良いですよ。もったいないですよ。
メインは有料でもいいと思います。

おっちゃん | 2009年06月20日 22:04
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