| マル激トーク・オン・ディマンド(第421回) |
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放送日 2009年05月02日(PART1:74分 PART2:26分)
自動車文明の終焉
ゲスト:下川浩一氏(東海学園大学経営学部教授)
自動車文明発祥の地であるアメリカで、大手自動車メーカーの「ビッグ3」が深刻な経営危機に陥っている。日本でも自動車メーカーが軒並み減産に踏み切るなど、自動車産業の凋落を伝えるニュースが後を絶たない。その一方で自動車産業は、エコカーの開発など、時代の先端産業としての顔を、今なお持ち続けてもいる。「自動車の世紀」と言われた20世紀を経て、今、自動車文明はどこに向かっているのだろうか。
自動車産業史研究の第一人者で、世界の自動車産業の興亡を長期にわたって分析してきた東海学園大学の下川浩一教授(法政大学名誉教授)は、大量生産・大量消費に支えられた自動車文明はもはや限界を迎え、20世紀を通じて成長してきた自動車文明は、今大きな岐路に差し掛かっていると話す。冷戦後、西側先進国の主要自動車産業は、グローバル化の波に乗って、世界中に市場を拡大していった。しかし、それが今、一転して危機に瀕しているのは、自動車文明自体が終焉を迎えているからだというのだ。
1920年代のT型フォードに始まった自動車文明は、20世紀文字通り時代の担い手だった。先進国では高速道路や橋など自動車中心のインフラ整備が進み、僅か1世紀の間に自動車産業は経済界の新参者から基幹産業にまで成長した。
しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いだった自動車文明に最初に翳りが見えたのは、公害が深刻な社会問題となった1970年代だった。また、70年代はオイルショックも自動車産業の未来に影を落とした。自動車を中心に社会を構築することが経済繁栄につながるという短絡的な考え方に対し、東京大学の宇沢弘文教授は『自動車の社会的費用』(1974年)で、道路建設など自動車が発生させる社会的コストがいかに大きいかを指摘しているし、ケンブリッジ大学のエンマ・ロスチャイルド教授は、このままでは自動車産業は今世紀中に終わるとまで予言していたと、下川氏は話す。
オイルショックと公害の70年代、日本車が燃費効率や排ガス規制技術で大きく競争力をつけたのに対し、アメリカの自動車産業は法規制ぎりぎりの対応で乗り切ることしかできず、日本車に大きく市場シェアを奪われる。また、その一方で、ビッグ3は、次第に本業の自動車製造から金融への依存体質を強めていく。更に、90年代以降アメリカがITバブルや住宅バブルの好況に沸く中で、ビッグ3は燃費効率を無視した大型車を次々と投入していった。
そして、21世紀に入り、それらが全て裏目に出る。地球温暖化が人類共通の問題として浮上し、原油価格の高騰とも相まって、燃費問題は世界中の消費者の最優先課題となる。しかも、それに金融危機が追い打ちをかけると、燃費効率で日本車の後塵を拝し、金融で儲ける体質にどっぷり漬かっていたビッグ3が、一気に苦境に追い込まれるのは当然の成り行きだった。
しかし、今アメリカ自動車産業が直面する苦境は、決してビッグ3固有の問題ではない。今後、エネルギーを含めて資源の使用はこれまで以上に制約されることは明らかだ。資源を大量に消費し、高速道路などコストのかかる社会インフラを必要とする現在の自動車産業のままでは、早晩行き詰ることが避けられないと下川氏は言う。
自動車の利便性は私たちの暮らしを大きく変えた。車を保有することは一つの社会的ステータスであり、自動車は多くの人にとって豊かさのシンボルでもあった。また、自動車関連産業は全就業人口の約8%を雇用するなど、重要な基幹産業であることも間違いない。
しかし、ガソリンを消費し排気ガスを出すという高い環境負荷、インターネット等の普及で実際に移動しなくても濃密なコミュニケーションが可能になったことなど、自動車を取り巻く環境は大きく変化し、それに呼応して自動車産業も大きな変革を迫られている。
21世紀の自動車産業はどのようなものになっていくのか。自動車という文明の利器は生き残れるのか。自動車文明論の大家である下川氏とともに、「自動車の世紀」を振り返り、現在自動車が直面している問題と、自動車社会の次に来る社会がどのようなものになるかについて議論した。
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| マル激トーク・オン・ディマンド(第422回) |
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放送日 2009年05月09日(PART1:53分 PART2:46分)
北方領土問題は終わっている
ゲスト:中村逸郎氏(筑波大学大学院教授)
昨年5月に大統領の座をメドベージェフ氏に譲り首相に就任したロシアの最高実力者プーチン氏が、11日、首相としては初めて来日する。
建前上ロシアでは、外交は大統領が担当し、首相は経済問題を担当することになっているため、今回のプーチン氏来日では北方領土問題は議論されないことになっている。しかし、日本政府は最高実力者のプーチン氏の意向が領土問題解決のカギを握ると見て、来日を前に早くも、領土問題をめぐる鞘当てが始まっている。中でも、谷内正太郎元外務次官が毎日新聞とのインタビューの中で「3.5島返還でもいいのではないか」と語ったことが、多くの耳目を集めたことは記憶に新しい。
しかし、ロシア現代政治の専門家で、留学経験も含めロシアを頻繁に訪れ、ロシアの現地事情に詳しい筑波大学大学院の中村逸郎教授は、今回のプーチン首相の来日で北方領土問題が進展することはないだろうと言い切る。そればかりか中村教授は、ロシア側にとってもはや北方領土問題を解決したり、進展させなければならない動機が存在しないため、日本が一貫して守り通している四島一括返還はおろか、3.5島も二島先行返還も、もはやあり得ない状況になっているとの厳しい見方を示す。北方領土問題は、もはや日ロ間の問題ではなく、日本の国内問題と考えた方がいいと言うのだ。
日本政府は、歯舞(群島)、国後、色丹、択捉の北方四島は18世紀末から江戸幕府の直轄地であり、1855年の日露和親条約、1905年のポーツマス条約、1951年のサンフランシスコ平和条約などを経た今も、歴史的経緯や国際法上、これが「我が国固有の領土」であることは明らかであると一貫して主張している。そして、日ロ両国は、この領土問題が未解決であるが故に、平和条約を締結していない。当時のソ連がサンフランシスコ平和条約には不参加だったため、日本とロシアは法的には未だに第二次世界大戦を戦っていることになる。
確かに日本にはさまざまな歴史的経緯から、北方領土の四島一括返還の旗を降ろすことが困難であることは理解できる。古くから日本が領有してきた「我が国固有の領土」という主張も十分正当性があるし、そもそも北方領土を含む千島列島は、スターリン下のソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して不当に占領支配したものであり、現在の実効支配には正当性が無いという主張も、もっともな主張だ。しかし、その一方で、サンフランシスコ平和条約で日本が領有を放棄した「千島列島」の中に北方四島は含まれないとする日本政府の主張が、国際法上、日本政府が期待するほど自明なものではないことも事実だ。また、既に北方四島がソ連、そしてロシアの実効支配下に入って60年が過ぎた今、この問題が、単に四島一括返還という日本の主張を繰り返すだけではどうにもならない問題であることもまた、誰の目にも明らかだ。
中村氏は1990年代、共産主義が崩壊した直後の混乱期にあったロシアが、日本の経済的な支援に価値を見出していた時代には、二島返還であればロシア側が応じてくる可能性はあったかもしれないと言う。また、実際にそのような兆候も何度か見られた。しかし、その時も日本は四島返還にこだわるあまり、その機を完全に逸してしまった。その時、既に日本では、冷戦下に醸成された四島一括返還のドグマに喚起された世論が、今さら「二島先行返還」などという妥協を容認できる状況ではなかった。その間、「二島先行返還」路線で突っ走った政治家や官僚の多くが、売国奴扱いされ、パージされるというおまけまでついた。今でも四島一括返還の立場を否定するような発言を公の場で行うと、学会はもちろんのこと、一般市民からも厳しい指弾を受ける状態が続いているという。
そして、今やプーチン氏の強力なリーダーシップの下でエネルギー大国として復活したロシアにとって、日本の経済力はそれほど大きな意味は持たなくなってしまった。そうした中で、長い国境線上に他にも多くの領土問題を抱えるロシアが、国際法上もグレーゾーンにある北方領土問題で妥協する理由など全く見当たらないというのが、現在の客観的状況だと、中村氏は言う。
中村氏はまた、そもそもロシアとの領土交渉で日本は、ロシアにとっての北方領土問題の重要さを見誤ったのではないかと指摘する。他民族を吸収して膨張してきた帝国であるロシアには、国としての核がなく、周辺こそがロシアの本質である。ロシアにとってはたとえ北方領土といえども、それを手放すことはロシアの本質を手放すことに等しいと、中村氏は言うのだ。
どうやら、ロシアは最初から北方領土を返す気などさらさら無かったが、日本政府がやたらこの問題にこだわりを持ち、また大々的に世論を動員しているところを見て、これを交渉の材料として使えると判断した可能性もある。日本から様々な支援や妥協を引き出すために、ある時は強硬な姿勢を見せ、またある時は二島なら返す妥協的な素振りを見せてみたりしながら、日本を交渉で手玉にとってきただけかもしれないというのだ。そして、今やそれすらも必要なくなったので、北方領土問題は少なくともロシア側から見ると、もはや交渉の材料としての価値すらも失ってしまったということなのかもしれない。
むしろ日本の方が、上げた拳のしまい場所を早く見つけることを考える必要があるのかもしれない。今となっては、エネルギー大国ロシアから得るものが多いのは、エネルギー貧国日本の方かもしれないのだ。
頻繁にロシアを訪れている中村氏は、ロシアでは近年ロシア正教会が力を伸ばし、共産主義下で没収された教会領が次々と教会に返還されたため、今やロシアでは正教会こそが最大の財閥になっていると言う。そして、そのロシア正教会が、最近、国後島と色丹島に教会を建てたそうだ。これはロシア人にとってその土地が聖地となったことを意味する。これはロシアが、もはやこの土地を返す気がまったくないことを明示していると中村氏は言い切る。
プーチン氏来日を機に、未だに二島だ、3.5島だ、四島だのといった「国内向け」の議論を続ける日本政府と、もはや日本を必要としなくなったロシアの国内事情、そして日本にとって真の国益とは何なのかについて、中村氏と議論した。
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| マル激トーク・オン・ディマンド(第423回) |
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放送日 2009年05月16日(PART1:57分 PART2:43分)
「開かれた司法」と逆行する裁判員制度
ゲスト:田島泰彦氏(上智大学文学部教授)
5月21日、ついに裁判員法が施行される。これまでマル激トーク・オン・ディマンドでは、裁判員制度について議論を重ねてきた。その過程で数々の論点が明らかになったが、中でも最大の問題と思われるものが、制度の非公開性だった。ある制度にどんな欠陥があっても、少なくともその情報が公開される仕組みさえできていれば、いずれその欠陥は広く社会の知るところとなり、早晩対策なり改善が行われることが期待できる。しかし、現行の裁判員制度では、広範かつ厳格な守秘義務が裁判員自身と報道機関に課されているため(報道機関側は司法当局との話し合いの結果、自主規制という形はとっているが)、仮に制度に重大な問題があっても、その情報を社会が共有することができない。そのため問題が改善されないまま、永続してしまう仕組みになっているのだ。
表現の自由やメディア規制を専門とする上智大学文学部の田島泰彦教授は、裁判員制度は守秘義務と報道規制でがんじがらめになっており、本来の目的とされた「市民参加により開かれた司法をつくる」との理念とは完全に逆行していると指摘する。
裁判員の守秘義務違反は、6か月以下の懲役・50万円以下の罰金という刑事罰の対象となっている。裁判員は事件関係者の個人情報はもちろんのこと、評議の内容や議事進行の公正さを口外することが公判中も、公判終了後も、半永久的に禁じられている。裁判員は自分自身が裁判員となったことを公にすることも禁止されているのだ。
また、メディアは事件に対する報道が細かく規制されるほか、公判が終了した後も、裁判員に接触することが禁じられている。裁判員は、裁判員として知り得た情報は、基本的に一切誰にも言えないまま、墓場まで持っていかなければならないのが、裁判員制度の守秘義務の実情なのだ。
更に、これは裁判員制度そのものの問題ではないが、公判前整理手続きが非公開であることも、同様の問題をはらんでいる。裁判員という一般市民を公判に強制的に参加させる以上、裁判はできる限り短時間で終わらせる必要がある。最高裁は平均して3日と説明しているが、それを実現するために、刑事裁判では公判前整理手続きと呼ばれる論点の絞り込みが裁判所、検察、弁護人の間で非公開で行われる。しかし、ここで議論された内容については、弁護人は公表することができない。公判前整理手続きで強引かつ不公平な運営が行われたとしても、社会はその事実を知るすべを持たないのだ。
田島氏は、ここまで厳しい守秘義務を課す背景には、司法当局がこれまで通りの閉鎖的な司法を正当化するために、裁判員制度を利用しているとも考えられると指摘する。一般市民である裁判員を守らなければならないとの口実で、さまざまな守秘義務を課したり、メディアとの接触を制限したりするのは、結局司法当局が本当の意味で開かれた司法など実現する気がないことの反映だと言うのだ。
裁判員制度開始を目前に控え、裁判員制度と国民の知る権利との間にある大きな矛盾を、田島氏と議論した。
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| マル激トーク・オン・ディマンド(第424回) |
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放送日 2009年05月23日(PART1:107分 PART2:102分)
臓器移植法に改正が必要な理由
ゲスト(PART1):河野太郎氏(衆議院議員)、阿部知子氏(衆議院議員)
ゲスト(PART2):ぬで島次郎氏(東京財団研究員)
臓器移植法の改正をめぐり、国会が揺れている。現行法の制限を大幅に緩和する案と、むしろ規制を強化する案とその折衷案などが錯綜し、各党がこの法案については党議拘束をかけない方針を打ち出していることも相俟って、全く見通しがたたない状態に陥っている。日本の国会では珍しいガチンコ状態と言ってもいいだろう。
1997年に成立した同法には3年後の見直しが定められていたが、施行後約10年間、一度も見直しは行われてこなかった。しかし、この5月にWHO(世界保健機関)の総会で臓器移植のガイドラインが変更され、移植臓器の国内自給が求められるようになるとの観測が飛び交ったことがきっかけで、国内でも臓器移植法の見直し機運が一気に高まった。
実際は新型インフルエンザへの対応に追われたために、ガイドラインの変更は今年は行われないことになったが、WHOの動向にかかわらず、国会では臓器移植法の審議が来週にも始まろうとしている。
これまで改正案としてはいずれも議員立法で、臓器移植をより容易にするA案、現行法を踏襲しながら、臓器提供者の対象年齢を15歳から12歳まで引き下げるB案、脳死判定基準をより厳格化するC案の3案が国会に提出されていたが、いずれも過半数の支持を得られる見通しは立っていなかった。そこで今月15日に自民党の根本匠議員、民主党の笠浩史議員らが新たな妥協案としてD案を提出し、衆議院の厚生労働委員会で来週AからDまでの4案の質疑が行われる予定だ。
97年に日本で初めての臓器移植法が法制され、本人の書面での提供意思の表明と家族の同意があれば、日本でも脳死となった人から臓器を取り出して移植を行うことが可能になった。しかし、これまでの12年間での脳死移植は81件しか行われていない。今年4月末現在、12,240人が臓器移植を待っている状態にある。また、現行法では15歳未満の臓器提供は認められていないため、臓器移植を必要とする子どもは、高額の費用を負担して海外で移植を受けるか、ドナーに後遺症が残る危険を冒して生体移植を受けるしかない。
これらの点を問題視して提案されたのが、年齢制限をなくし、本人の意思表示がなくても家族の同意のみで臓器提供を行うことができると定めたA案だ。A案は本人から生前の意思表示が無かった場合は、臓器提供の意思ありと推定されるため、脳死移植は大幅に増える可能性が大きい。また、A案はあくまで家族の同意が前提となるため、臓器提供者に年齢制限を設けていない。
しかし、A案では本人があらかじめ臓器提供を拒絶する意思を表明できる上、本人の意思にかかわらず家族は臓器提供を拒否できるため、「どなたにも意思に反したことを強制しない」とA案の提案者で自ら生体肝移植のドナーとなった経験を持つ自民党の河野太郎衆議院議員は説明する。
一方のC案は、一概に脳死を人の死としない現行法の考えを踏襲した上で、現行の脳死基準をさらに厳格化することで、脳死後も何年も心停止に至らない例も数多くみられるなど、医学的にも脳死を人の死とすることへの疑問に答えようとする立場をとる。
また、4案の中で唯一生体臓器移植を親族間のみに限定する規制を含む。C案の提案者で社民党の阿部知子氏は、自らの小児科医としての経験に基づき、脳死を一律に人の死としてしまうことにリスクを訴えた上で、その一例として臓器移植以外の医療が十分に施されていない問題を指摘する。
B案は現行法の年齢制限を15歳から12歳に下げるもので、D案は現行法から年齢制限を削除するというもの。いずれも、国内では移植を受けられない日本人の子どもが、海外で移植を受けている事態にのみ対応した案だ。
臓器移植は臓器を提供する側と移植を受ける側の立場の、どちらから考えるかによって、180度見え方が変わってしまう性格があるため、非常に判断が難しい。しかし、科学技術政策論の専門家で20年臓器移植法を研究してきたぬで島次郎氏は、まず臓器移植問題と「脳死は人の死か」の死生観をめぐる議論は分けて考える必要があると説く。脳死を人の死とするかどうかについては、まだ決着がついておらず、問題の語られ方もこの20年変わっていないと言う。これはまた臓器移植が進んでいる海外でも決着がついているわけではない。この議論を始めると泥沼にはまってしまうとぬで島氏は言う。
臓器移植をめぐる真の争点は、日本人の死生観ではなく、死後の臓器の摘出に本人の同意を必須とするかしないかにあり、4案の審議もその点に絞るべきだとぬで島氏は主張する。人権の最も基本である人身の不可侵を守るのが本人同意であり、どういう場合に本人同意を外すことが許容されるべきかを決めることが、臓器移植における本質的な論点であるべきだというわけだ。
また、ぬで島氏は現行法では、生体移植がまったく規制されていないため、日本の生体移植の件数が海外に比べて非常に多いことが、逆に日本で脳死移植が増えない原因にもなっている可能性があると指摘する。その意味でC案は生体移植を近親者に限定するルールを備えており、この点では合意できる可能性がある。
ぬで島氏はこの法案では、AからDのどれか一つを選ぶのではなく、条文ごとに受け入れられるものを選んでいく「逐条審議」を行うべきだと主張しているが、日本の国会では慣例により、逐条審議は行われていない。
今週のマル激では、来週にも本格的に審議入りする臓器移植法改正案の論点を2部構成で徹底的に議論してみた。まずPart1ではA案提出者の自民党河野太郎衆院議員とC案提出者の社民党阿部知子衆院議員をスタジオに招き、両議員が考える現行法の問題点やそれぞれが提案する案のポイントをディベート方式で議論してもらった。(Part1は無料放送中)
そしてPart2は、ぬで島氏とともに、前半の議論を踏まえて、臓器移植問題の争点をさらに掘り下げた。(ぬで島氏のぬでは木へんに勝)
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| マル激トーク・オン・ディマンド(第425回) |
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放送日2009年05月30日(PART1:71分 PART2:40分 PART3:45分)
5金映画スペシャル C・イーストウッドの描くアメリカ保守主義の再興は本物か
5週目の金曜日に特別企画を無料放送でお届けする「5金スペシャル」。今回は、9か月ぶりの映画特集をお送りする。
今回取り上げた作品は、新聞記者を主人公とした『消されたヘッドライン』(ケヴィン・マクドナルド監督)、名前の通りブッシュ大統領を描いた『ブッシュ』(オリバー・ストーン監督)、ミッキー・ローク主演の『レスラー』(ダーレン・アロノフスキー監督)、そして、クリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』と『グラン・トリノ』の計5本。
いずれも、アメリカ映画が元気を取り戻しつつある様子が感じられる作品だ。特にクリント・イーストウッド監督の2作品は、ブッシュ政権の迷走で方向性を失いつつあったアメリカの保守主義が、今改めてその方向性を再確認しようとする姿勢が見て取れる。アメリカの保守主義再興の本物度を考えた。
また、上記の作品の多くが社会問題は「システム」ではなく、「個人」に問題の根源があるという立場に立って、社会問題を描いている点が共通している。単にシステムを変えても、所詮最後は個人個人がしっかりしていなければ、問題は無くならないということのようだ。そのことの意味を日本にも当てはめて考えてみた。
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| マル激トーク・オン・ディマンド(第426回) |
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放送日 2009年06月06日(PART1:48分 PART2:43分)
DNA鑑定は誰の利益に資するべきか
ゲスト:天笠啓祐氏(ジャーナリスト)
DNA鑑定を含む科学技術は、もともと誰のためにあり、何のためにそれを刑事捜査に導入するのだろうか。この問いに対する一般的な答えは「真犯人を逮捕するため」となるに違いない。それだけなら、恐らく誰も文句は言わない。しかし、ここで言う「真犯人の逮捕」の中に「犯人ではない人の無実を明らかにするため」が含まれていなければ、それは単なる警察の捜査権限の拡大を意味することになる。
4歳の女児が殺害された足利事件で、無期懲役が確定し服役中だった菅家利和さんが、DNA再鑑定の結果、無罪であることが確実となり、4日、千葉刑務所から釈放された。
菅家さんを犯人と断定する上で決定的な役目を果たしたDNA鑑定が、およそ20年の月日を経てその精度を増し、結果的に菅家さんが犯人ではないことを証明した結果だった。 無実の身で17年間刑務所に拘留された菅家さんの心中は察するに余りあるものがあるが、この問題が最新のDNA鑑定技術によって解決されたことで、DNA鑑定万能論とも呼ぶべき空気が蔓延しつつあることには注意が必要だ。
早くからDNA鑑定に関心を持ち、著書『DNA鑑定―科学の名による冤罪』の中で足利事件が冤罪である可能性を10年以上前から指摘してきたジャーナリストの天笠啓祐氏は、DNA鑑定があくまでDNAの型を調べている「DNA型鑑定」であることを強調する。警察が用いているMCT118と呼ばれるDNA鑑定は、血液型のA型やO型と同じように、DNAの塩基配列の中の、ある特定部分の塩基配列(より厳密にはある特定の配列が繰り返される回数)に基づきDNAを類型し、その一致の是非を調べているに過ぎない。被疑者のDNAが犯人のDNAと一致したと考えるのは、大きな間違いだ。
また、どんなにDNA型鑑定技術そのものの精度が上がっても、鑑定の対象となるDNAサンプルの採取は人間の手で行われる。その段階での不適切なサンプル処理や、杜撰な証拠管理によって、結果は大きく左右されることになる。そもそも、その段階で証拠のねつ造などが行われてしまう可能性も考え合わせると、DNA鑑定の結果で犯人を断定してしまうような空気には、かなりの注意が必要だ。
そもそも足利事件では、菅家さんは自白を取られている。釈放後の記者会見で菅家さん自身が、警察の暴力的な取り調べによって自白を強要された事実を明らかにしているが、当時より格段に精度を増したとされるDNA鑑定の結果を突き付けられ、肉体的にも精神的にも追い詰められた状況の下で自白を強要された時に、いったいどれだけの人が最後まで抗うことができるだろうか。
そうしたことまで考え合わせると、今回の冤罪事件を不確かなDNA鑑定だけの問題に帰結することは、逆に進歩した今日のDNA鑑定技術に過度の信頼性を持たせ、冤罪の再発の原因となる危険性をはらんでいると思えてならない。
もともと菅家さんの冤罪を招いたDNA鑑定技術について、当時のマスメディアは、それを画期的な技術として持て囃すような報道を繰り返していた。
天笠氏は、現在のDNA鑑定は、DNAの型の違いを明らかにすることで、ある人の無実を証明するためには有効だが、誰かを犯人と断定するには十分な注意が必要だと警鐘を鳴らす。そうでなくとも日本の取り調べのあり方や刑事訴訟制度上の問題が指摘されている。そうした中にあって、新しいDNA鑑定の技術が、「犯人を見つけるために有効なツール」とメディアや識者に囃される一方で、必ずしも「被疑者の無実を証明するためにも有効なツール」とは受け止められていないところに、現在の刑事制度が抱える本質的な問題の一端が垣間見えると言っては、言い過ぎだろうか。
アメリカでは、被告にDNA鑑定を受ける権利があり、これまでに200人以上の冤罪が明らかになっているが、その中にはすでに死刑が執行されたケースもあったという。日本では、DNA鑑定のために冤罪が生まれているとすれば、その違いはどこにあるかを、十分考えてみる必要があるだろう。DNA鑑定がもっぱら捜査機関のみに活用され、被告人の利益になっていないとすれば、それはDNA鑑定そのものの問題ではなく、日本の刑事制度そのものの問題である可能性が大きい。
今回は足利事件の冤罪問題を入り口に、DNA鑑定がどのようなもので、それは一体誰の利益に資するべきものなのかを、天笠氏とともに考えた。
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| マル激トーク・オン・ディマンド(第427回) |
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放送日 2009年06月13日(PART1:68分 PART2:57分)
グリーン革命に乗り遅れる日本
ゲスト:飯田哲也氏(環境エネルギー政策研究所所長)
「低炭素革命で世界をリードする」。10日、麻生首相が、日本の温室効果ガスの2020年までの削減目標を05年比で15%減とすることを発表した。麻生首相はこれが野心的な目標と考えたと見えて、「野心的」、「決断」などの言葉を連発したが、世界からは冷ややかな反応しか返ってこなかった。ちょうど国連気候変動枠組み条約の特別作業部会が開かれているボンでは、麻生首相を先のブッシュ大統領に擬した似顔絵とともに、世界の潮流から大きくずれた日本の削減目標を批判するコメントが相次いで出された。
省エネ世界一などと喧伝している日本だが、実は1990年と比較して温室効果ガスが9.2%も増加している。そのため、「05年比15%削減」を、1990年の排出量と比較した数値にすると「8%削減」としかならない。京都議定書の削減義務は、2013年までに90年比6%削減なので、今回の中期目標はその後8年をかけてもう2%だけ削減する意思を表明したにすぎない。ちなみにIPCCは、地球温暖化を抑えるためには2050年までに世界全体のCO2排出量を1990年比で半減する必要があり、そのためには先進国は2020年までに25〜40%削減しなければならないと試算している。40%削減に対して、日本は8%は余りにもかけ離れた数字だった。
地球温暖化問題に長年取り組んでいるNGO環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也氏は、今回発表された数字は、「嘘で塗り固めた不作為」であると酷評する。そもそも政府もメディアも05年比の数字を発表しているが、国際的な中期目標は1990年の排出量を基準に決められている。削減努力を「何もやってきていない日本」(飯田氏)にとって、05年比にした方が目標の低さを誤魔化しやすいため、恣意的な数字を出しているに過ぎない。
しかし、日本の目標がアメリカやEUと比べて遙かに深刻なことは、単にその数値が低いことではないと飯田氏は言う。日本は「ただの数字遊びをしているだけで、削減するための具体的な政策が何もない」ことが、最大の問題だと言うのだ。
麻生首相は、日本の目標はアメリカの目標値を上回っていると胸を張った。確かにアメリカはブッシュ大統領が京都議定書から離脱して以降、温室効果ガス削減の努力を何もしてこなかったために、数値的には低い目標しか掲げられていない。しかし、オバマ大統領が就任して以来、アメリカは矢継ぎ早にグリーン・ニューディールと呼ばれる施策を打ち、一気に遅れを取り戻している。既にGDPの0.5%を投入するグリーン景気刺激策を09年2月に成立させているほか、再生可能エネルギーの買い取り義務付けやスマート・グリッドなどを盛り込んだ600ページにも及ぶワックスマン・マーキー法が4月に議会に提出されている。
飯田氏は、アメリカが目標値を実現する具体的な手段を持っているのに対し、日本は政策手段も道筋もないまま、数字だけ出しているに過ぎないと指摘する。言うまでもないが、EUは既に排出量取引市場を創設し、ドイツやスペインを筆頭に、再生可能エネルギーでは世界のトップをひた走っている。どうやら、日本はグリーン革命で完全に世界から取り残されてしまったようだ。
なぜ、日本はグリーン革命に踏み切ることができないのか。飯田氏は、経済界に地球温暖化についての共通認識がなく、政治もイニシアチブを取れていないことに、原因は尽きると言い切る。特に、発電から送電までを独占し続ける日本の電力会社は、原子力にしがみついたまま、世界のダイナミックな変化に全く対応できていないというのだ。
しかし、それよりも更に重大な問題を日本は抱えていると飯田氏は言う。それは、日本がEU諸国やオバマ政権のように、世界の最先端で提案された知的蓄積を、自国の政策に活かす仕組みを持っていないことだ。官僚が省益だけを考え、独占企業が自分達の利益だけを考えて、政策を主張する。日本の政策はそれをつぎはぎにしたものでしかないため、国際的な知の蓄積が全く反映されないというのだ。
世界がグリーン革命に向けて猛スピードで走り始める中、日本はどこまで取り残されてしまったのか。遅れを取り戻すための処方箋はあるのか。飯田氏とともに議論した。
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| マル激トーク・オン・ディマンド(第428回) |
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放送日 2009年06月20日(PART1:66分 PART2:37分)
Googleブック・サーチが問う出版の未来
ゲスト:村瀬拓男氏(弁護士)
またまたGoogleという黒船が日本の扉を叩いている。街中を写真に収めて回るストリートビューや空から世界中が見えてしまうGoogleアースなど、これまであり得なかった画期的なサービスで物議を醸してきたGoogleが、今度はグーテンベルク以来の出版のあり方を根底から変えようとしている。
Googleは契約した図書館の蔵書をスキャンしてデータベース化を進め、いずれは世界中の全ての本をデジタル化する方針を明らかにしている。そして、これは紙の著作物の流通で収益をあげてきた出版業界にとって、自らの存在を根底から覆しかねない大問題となっているのだ。
このサービスは「Googleブック・サーチ」と呼ばれるもので、アメリカでは04年、日本では07年に開始したもの。Googleが契約した図書館(米ハーバード大学図書館など。日本の慶應義塾大学が参加)の蔵書を片っ端からスキャンしてデータベース化したことで、既に利用者は本のページの画像をネット上で見ることができるようになっている。また、本の全文がテキスト化されデータベース化されているため、キーワード検察でその言葉を含む全ての本をリストアップすることも可能になった。本の全文がテキスト化されデータベース化されたことで、一般利用者は欲しい本を手に取ることなくネット上で見つけ、アマゾンなどで購入することができるようになっている。
しかし、このサービスに対して、05年、米作家協会などが本の権利者の許諾を得ずに全文をスキャンすることは著作権侵害だとして、Googleを提訴した。Googleは米著作権法が定めるフェアユース(公正な利用)に基づいていると主張し、米作家協会らはスキャンは無許可の複製であると主張したが、昨年両者の間で和解が成立し、許諾なしにスキャンした書籍については1作品あたり60ドルをGoogleが支払うことや、このサービスから得られる収益の63%を権利者に支払うこと、版権登録機関の設立費用をGoogleが出すことなどが決まった。
この和解の成立で、権利者(出版社、著者)は和解案に参加するか離脱するかを迫られることになったのだが、なんとこれが、日本の出版社や著者にも及ぶことが判明し、日本の出版界は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
そもそもこの和解は、アメリカで行われた訴訟が集団訴訟(Class Action)という形をとっていたため、そこで得られた和解や判決は原告のみならず、その被害を受けた人全員に効力を持っている。それでも普通であれば自分が関わっていない外国の裁判所の決定になど拘束されないものだが、こと出版に関しては、日本はベルヌ条約という著作権を相互に保護する国際条約に加盟しているため、アメリカで保護が決まった著作権はそれが自動的に日本にも適用されるという。
そのため、日本の著者や出版社も、和解を拒否したい場合は申請が必要で、一定の期限までにその意思表示がない場合は、和解を受け入れたものとみなされてしまうという。何とも乱暴な話だが、それがGoogleブック検索がまさに「黒船」である所以なのだ。
出版業界と深い関係を持つ弁護士の村瀬拓男氏は、この和解案は出版業界のあり方を根底から覆すような、本質的な問題提起をしていると説明する。
今回の和解案では、現在も市販されている本は目録情報や連動広告などのみが表示され、全文をネット上で読めるのは、絶版された本と、市販されていない本に限ることになっている。
確かに、絶版され、市場で入手できない本がデジタル化されてネット上で読むことが可能になれば、従来、紙の本が持っていた物理的制約から解放される。しかし、紙の本を出版し、それを流通させることでビジネスを成り立たせてきた出版業界にとって、書籍の全文がデジタル化され、ネット上でそれが入手が可能になることは、自分達のレゾンデートルを脅かす大問題となる。なぜならば、Googleブック検索で全文を読むことができるのは、現時点では絶版された本に限られるが、これがいずれは全ての本に拡大していくのは、時間の問題と考えられるからだ。しかも、このサービスによって、利用者にとっては全面的に利便性が高まることになり、また、著者も63%という十分な利益配分を受けることができるため(現行の著者印税は通常10%!)、出版業界の利害のみを理由にして、この流れを一概に否定することも難しい。
しかし、その一方で、Googleという米国の一企業が世界中の書籍のデジタルデータを独占することへの懸念もある。Googleが私企業であるがゆえに、この事業が未来永劫続く保障はどこにもないからだ。仮に全ての書籍データがデジタル化され、紙の出版が消滅してしまった後に、Googleが何らかの理由で倒産したり、経営上の理由からサービスの廃止を打ち切った場合、人類の英知が蓄積された本が、この世から消えてしまうことさえ、あり得ないとは言い切れない。
その他にも、日本語はアルファベットに比べ、デジタル化した際の漢字認識の精度に問題がある。著者と編集者が力を合わせた結果として現在の書籍のクオリティがあるが、Googleブック検索では、日本人は間違いだらけのテキストデータで検索を行うことを強いられる可能性もある。
本の売り上げは年々減少し、雑誌も相次いで休刊している中、時折繰り出すミリオンセラーでなんとか持ちこたえている瀕死の状態にある書籍業界にとって、今回Googleが突き付けた選択はあまりにも重い。今後出版業界はどう変わっていくのか。利用者にとっては一見いいことずくめにも見える書籍のデジタル化に、落とし穴はないのか。村瀬氏とともに議論した。
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放送日 2009年06月27日(PART1:60分 PART2:32分)
意味のある政権交代を実現するために
ゲスト:山口二郎氏(北海道大学教授)
麻生首相は25日、記者会見で解散の時期は「そう遠くない」と述べ、解散総選挙が近いことを仄めかした。早ければ7月2日の衆議院解散も取り沙汰されている。しかし、内閣の支持率は依然として低落傾向が止まらない。雑誌などの選挙予想を見る限り、どうやら政権交代が現実のものとなりつつあるようだ。
これまでマル激では、民主党の政策を詳細に検証し、政権交代後の政権を展望する企画を何度か行ってきた。今回は日本で事実上半世紀ぶりとなる「政権交代」そのものの意味を考えた。
1996年の旧民主党結党時から党のブレーンであり、政治学者として政権交代を研究してきた北海道大学の山口二郎教授は、政権交代本来の意味を考えれば、半世紀にわたりそれが無かった日本に、今どのような弊害が生じているかがありありと見えてくると言う。
もともと日本が採用している議院内閣制は、三権分立ではない。立法府の代表が行政の長を兼ねるため、立法府が強くなりすぎる危険性がある制度だ。しかも、人間や人間の作る組織は必ずまちがいを犯す。権力を手にすれば、いずれ腐敗し、時代への適応力を失っていくことは、歴史が証明している。
また、一つの勢力が権力の座に長くあると、行政や既得権益を持った団体や事業者との間に癒着関係が生じる。その癒着故に、必要な改革が行えなくなる。
そうした人間の不完全さや腐敗や堕落から政治を救い、立法府の暴走や閉塞を防ぐために、政権交代は民主主義のシステムにもともとビルトインされた機能だった。
しかも、日本では裁判所とメディアという、本来は権力の暴走をチェックするはずの機関が、ほとんどまともに機能していない。このような日本固有の問題もあると山口氏は指摘する。
つまり、早い話が、日本ほど政権交代を必要としている国はないにもかかわらず、それが実質的に半世紀もの間、一度も起きなかったことが、今日本が抱える様々な問題へとつながっているということだ。
確かに冷戦構造下の日本は、政権交代を必要としていなかったという説に一定の合理性はある。日米同盟、軽武装に経済発展至上主義。これは、戦後、そして冷戦構造下の日本にとって唯一の選択肢でもあったし、また日本人の大半もその選択に異論はなかった。
16年前に一度、短い政権交代があったが、あれは自民党の一部が離党して野党と手を組んだために起きた、言わば擬似的政権交代であり、有権者が主体的に別の勢力を選んだ本当の意味での政権交代だったとは必ずしも言えない。その証拠に、8勢力による連立政権は理念や政策も共有しておらず、8ヶ月で空中分解してしまった。
しかし、政権交代は同時に、政策の選択でなければならない。欧米ではこれまで、再分配政策の度合いの多寡で、左右の陣営に勢力が分かれ、政権交代を繰り返してきた。平等を重んじ、貧富の差を縮めるために富の再分配を強調するのが左派で、政府の介入の行き過ぎを警戒し、より市場や個人の自由に任せるのが右派という選択が、概ねどの国にも存在した。
しかし日本では、自民党が「寛大な保守」(山口氏)という、本来は右派的な立場にありながら、実際には公共事業や補助金を通じた左派的再分配を積極的に行ってきたため、右と左の対立軸が明確にならなかった。しかも、日本では1980年代まで社会党が、社会主義イデオロギーの旗を降ろさなかったため、政権選択の現実的な選択肢になれなかった。自民党は一度は小泉改革で再分配政党の看板を降ろし、新自由主義的保守路線をとったが、それ以後構造改革路線は微妙に修正してきている。
一方民主党も、当初は政党のアイデンティティが捻れていたと山口氏は言う。当初民主党には社民党的再分配派と自民党以上に新自由主義的な政治家が混在し、それは今も変わっていないが、小沢一郎氏が代表に就任して以来、民主党は新自由主義から再配分へ明確に路線を切り替えたと山口氏は言う。自民党内は、小泉改革の評価をめぐり一枚岩ではないが、基本的には自民党の自由主義路線と民主党の再分配路線の対立軸がある程度はっきりと顕在化したため、次の選挙は、壊れかけた日本の社会経済システムをどのような方法で立て直すかをめぐる路線選択の選挙になったと、山口氏は言う。
仮に民主党が政権を取ったとしても、民主党が自らの歴史的役割を正確に認識し、それを確実に実行できなければ、政権交代が自己目的化してしまう危険性もあると、山口氏は警鐘を鳴らす。
また、より大きな問題は下野した後の自民党だ。自民党が野党に落ちた時、政党のアイデンティティを持ち続けることができるかどうか。また、その場合、自民党のパーティ・アイデンティティは中川秀直氏らが主張する構造改革路線なのか、麻生首相や一部の穏健派が主張する安心・安全、中福祉中負担路線になるのか。自民党が党の力を再結集できない場合、今度は民主党による長期独裁の危険性も出てくる。日本の議院内閣制は、本来は立法府の独裁こそ、もっとも警戒しなければならないシステムなのだ。自民党は日本における「健全な保守」とは何であるかの議論、つまり日本において「保守政党が保守しなければならない価値とは何か」の議論から始める必要があるだろう。
政権交代が現実のものとなった今、政権交代を意味のあるものにするために、アメリカやイギリスの政権交代との比較を交えて、政権交代に我々が何を求めるべきかを、山口氏と議論した。
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放送日 2009年07月04日(PART1:61分 PART2:26分)
世論という名の魔物とのつきあい方
ゲスト:菅原琢氏(東京大学特任准教授)
世論という魔物が、政界はおろか、日本中を跋扈しているようだ。
支持率の低迷で、自民党内からも公然と退陣を求める声が上がるなど、麻生降ろしが本格化し始めている。もともと国民的人気が高いという理由から、選挙の顔として擁立されたはずの麻生首相だが、今は人気の無さを理由に、首相の座から引きずりおろされようとしている。これも世論らしい。
かと思うと、宮崎県で圧倒的な人気を誇る元タレントの東国原知事の国政進出をめぐり、自民党の大幹部が右往左往するなど、いつ来てもおかしくない総選挙を控え、政界は「人気がすべて」の様相を呈し始めている。これも世論だそうだ。
確かに人気は民意を推し量るバロメーターの一つかもしれない。しかし、人気が政治を支配するようになると、何か大切なものが失われるような思いを禁じ得ない。そもそも私たちが「人気」と呼んでいるものに、実態はあるのだろうか。
人気を測るツールの一つに世論調査というものがある。民主政治を機能させる目的で戦後直後に新聞社によって始められた世論調査は、今や毎月のように頻繁に行われるようになったが、少なくとも当初の世論調査は「輿論(よろん=public opinion)」を知るための手段と考えられており、現在のような単なる「大衆の気分」を意味する「世論(=popular sentiment)」の調査ではなかったと言われる。世論調査を報じる新聞記者たちの間にも、「輿論を聞け、世論には惑わされるな」という意識が共有されていたそうだ。
しかし、いつしか「輿論」は「世論」に取って代わられ、政治は変質を始める。もともと代議制は、世論の政治への影響を緩和するための間接民主主義としての意味を持つが、人気に振り回されている今のポピュリズム政治は、事実上直接民主制と何ら変わらないものになっている。
現在の政治はこの世論の動向に敏感に反応し、世論が政策決定にも大きな影響を及ぼすようになっている。政府は長期的には重要であることが分かっていても、短期的に不人気になる政策を実行することがとても難しくなり、外交や死刑制度といった国民の生活に関係する問題も、いわば俗情に媚びた決定を繰り返すようになった。
世論調査に詳しい政治学者の菅原琢東京大学特任准教授は、そうした傾向の中で、ポピュリズム政治の代名詞と見られることが多い小泉政権こそが、最近ではもっとも世論をうまく利用した政治のお手本だったとの見方を示す。そしてそれは小泉首相が、人気取りをしなかったところに、そもそもの勝因があると言うのだ。
確かに、日朝会談や郵政選挙など、小泉政権を代表する政策は、必ずしも当時の国民の間で人気の高い政策ではなかった。しかし、小泉首相は次々と大胆な改革を断行することで世論を味方につけ、高い内閣支持率を支えに、さらに次の改革を打ち出すことで、長期にわたり高い国民的人気を維持することに成功した。政策の中身の是非はともかく、小泉政権の高い人気が、結果的に過去の政権が成し遂げられなかった多くの施策の実現を可能にしたことは紛れもない事実と言っていいだろう。
しかし、その後の自民党政権は、逆に人気ばかりを気にするあまり、思い切った政策を打ち出すことができなくなっている。一時的に人気のある人を首相に据えても、政策的に無策なため、たちまち支持率が低迷し、ますます大胆な政策が打てなくなる悪循環に陥っている。高い人気に後押しされて大きな成果をあげた小泉政権と、人気を気にし過ぎるが故に、大胆な施策を打てない安倍政権以後の政権のあり方は、実に対照的だ。
一方、財源問題を抱える民主党も、支持率低下を恐れて、消費税は絶対に上げないことを公約するなど、明らかな人気取りに走っている。政権を取るためにはやむを得ない選択との指摘もあるが、小泉政権とそれ以後の政権の対比から、政治は何も学んでいないのだろうか。
しかし、泣いても笑っても、天下分け目の総選挙は近い。有権者の中にも、世論調査や選挙予想を気にしながら、そろそろお目当ての候補者を見定め始めている人も多いはずだ。また、各党の人気取り合戦の方も、いよいよ熱を帯びてきている。
政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている。そうしたものに振り回されないで生きるためには、我々は何を支えに、どのような視座で「人気」というものを考えればいいのだろうか。
今週は世論調査を入り口に、「輿論」と「世論」の違いや「人気」との付き合い方を議論した。
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