2005年4月15日
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ホリエモンの「テレビはなくなる論」を考える(その2)

水越伸東京大学助教授(メディア史・メディア論)
マル激トーク・オン・ディマンド 第211回

 少し前にホリエモンの「テレビは無くなる論」について、東大の西垣通氏は、インターネット側からの視点で、概ねそれを支持するシナリオを語った。しかし、放送史に詳しい水越伸氏は、テレビはそう簡単にはなくならないだろうとの立場を取る。ここまで50年かけてテレビが築いてきた技術やビジネスモデルは、「大きな杉の木」のように日本の隅々にまで根を張っているからだ。
 しかし、テレビは杉の木同様、周囲の生態系を枯渇させ、また人々にとって有害となる花粉をばら撒きながら生きながらえていることも事実だ。水越氏は、テレビが受け手側からの広範な支持を得ないまま生き残りに走れば、今後テレビは生きる屍のような状態で生きながらえることになる可能性が高いとも説く。放送技術、免許、記者クラブといった既得権益のみによって支えられたメディアに成り下がってしまう可能性があるということだ。そして、同様の指摘は新聞にも当てはまる。
 果たしてテレビは失いかけた公共性を取り戻すことができるのか。その際にカギとなるのは何なのか。市民のメディア参加という視点も交えながら、ホリエモンのテレビはなくなる論を、テレビ側の視点から考えてみた。

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