なぜ今これまでにないほど核戦争の脅威が高まっているのか
明治学院大学国際平和研究所客員所員、明治学院大学名誉教授
小泉首相のおかげで、靖国神社のあり方、ひいては戦没者の追悼のあり方をめぐる議論が、これまでになく活発になっている。
ここまでの伝統的な靖国論争では、政教分離問題やA級戦犯の合祀の問題などを発火点に、最終的には先の戦争をどう捉えるかに帰結することが多い。先の戦争を不当な侵略戦争だったと捉える人は、首相の靖国参拝を戦前回帰への兆候とみて警戒し、その戦争には問題はあったとしても一定の大義もあったはずだと考える人は、靖国を大切にしなければならないと考える。だいたいそんな図式だ。
しかし、靖国問題を独自の視点から検証した『靖国問題の原点』の著者で、自身の祖父が靖国神社が一宗教法人として生き残る道を選択した時の内務大臣だったという因縁も持つ三土修平東京理科大教授は、その論理立てが的はずれであることは、GHQの占領のもとで靖国神社がなぜ今日のような法的立場に置かれるに至ったかを歴史的に検証すれば自ずとはっきりすると主張する。
三土氏によると、1945年末から46年初頭にかけて行われた神道指令と宗教法人令改正の際、GHQは靖国神社に宗教性を捨てて無宗教の公的追悼機関として存続する道と、宗教法人として宗教性を維持する代わりに、あくまで一宗教法人としての地位を甘受し、公共性は放棄する道のいずれかを選ぶように迫った。これは靖国神社に限ったことではなく、他のあらゆる宗教組織が同様の選択を求められたものだが、その実は単にポツダム宣言にも含まれていた政教分離原則の実施を求めたに過ぎないものだったと三土氏は言う。謀略史観に登場しがちな「日本を弱体化させるためのGHQの策略」となどという高等な戦術ではなく、「GHQはむしろ靖国神社が戦没者を追悼する無宗教の公的機関になることを望んでいたが、同時に宗教というものの性格を尊重する立場から靖国自身の意思を優先させた結果だった」(三土氏)というのだ。
靖国をどうすべきかについては日本側の意見も割れたが、最終的には一宗教法人として存続させ、政府とのつながりや公的な立場は放棄する道を選んだ。GHQとしては、「あとは政教分離の原則さえ遵守させておけば戦前の国家神道へ回帰する心配は排除できたものと安直に考えていた」(三土氏)という。しかし、その後も靖国で戦没者の合祀などが続き、靖国がとても「民間の一宗教法人」とは呼べないような役割を演じていることをGHQ側が知った時は、既に時代状況が変化しており、「今更靖国を潰せだのと言えるような状況ではなくなっていた」(三土氏)。
つまり、現在の靖国神社をめぐる対立と矛盾の原点は、GHQの占領下でGHQが靖国問題は解決できたと早合点したことにあり、担当者たちは早晩それが過ちであることに気づいたものの、もはや手遅れだったというのが真相だと、三土氏は言うのだ。
しかし、三土氏はまた日本側の選択も、決して戦略的なものではなかったと指摘する。靖国を一宗教法人として存続させる道を選びながら、信教の自由の原則の傘の下に隠れて、実質的には戦前と同様の公共的な役割も演じ続けることを目論んでいるかのような説もあるが、実際は靖国自身も生き残りに精一杯で、面従腹背などという高等戦術を採る余裕はなかった可能性が大きいと言うのだ。A級戦犯の合祀も、遊就館に見られる戦前回帰的な歴史観も、民間の一宗教法人に過ぎないという立場であれば、それほど重大な問題ではないはずだ。
もし仮に三土氏が指摘するように、GHQも靖国神社自身も、ともにこの問題に対する当事者性を持ち合わせていないとするとすると、靖国問題とは一体何なのだろうか。誰が靖国を「問題」にしてしまっているのだろうか。その答えは、日本人一人一人の「公」と「私」の区別の曖昧さが、一宗教法人という「私」であるはずの靖国神社に、一定の公共性を持たせてしまっているというのが、三土氏の見立てだ。靖国側も多少そうした状況に悪のりしているきらいはあるが、むしろ我々日本人が、靖国神社に宗教法人でありながら公共性も持ち合わせた「両棲動物的」(三土氏)な役割を押しつけているという面があることは否めないのかもしれない。
仮にそのような形で靖国問題をわれわれ自身の問題と位置づけた時、われわれは首相の靖国参拝をどう考えればいいのか。靖国問題に解決策はあるのか。三土氏とともに、靖国問題の本質とは何かを考えた。