なぜ中国は高市首相の台湾有事発言にこうも過剰に反応するのか
早稲田大学教育・総合科学学術院教授
今週のマル激は、12月21日に東京・大井町の「きゅりあん」で開催された「年末恒例マル激ライブ」の模様をお届けする。
2025年は、年明け早々から大きな政治の節目を迎えた。1月20日にはアメリカでトランプ政権が発足し、アメリカ国内でもまた国際舞台でも、矢継ぎ早にこれまでの秩序を破壊し始めた。特に世界中の国々に対して一方的に相互関税を課してみたり、移民国家アメリカの歴史を塗り替えるかのような勢いで移民の排斥を始めたことで、その影響は世界全体に広がった。
日本でも10月に石破政権から高市政権への交代があり、政策の方向性は事実上の政権交代と呼べるほど大きく転換した。日米ともに、リベラル勢力から保守勢力へと権力が移っていった点は共通していた。
かつて世界の多くの国では、リベラル勢力が主張する再配分政策によって、格差や貧困を含む多くの問題は解決できると考えられていた。政治が不幸を解決できると本気で信じられていた時代だった。しかし多くの先進国で人口減少が始まり、経済がほとんど成長しなくなった世界では、再配分の原資そのものが枯渇し、リベラルは力を失っている。リベラルに頼れないとなると、人々は別のよりどころを探し、心地良いレトリックで問題解決を掲げる保守ポピュリズムにすがるようになる。しかしそれも感情の代替物に過ぎず、実際に問題を解決してくれるわけではない。リベラル、保守を問わず、そもそも政府が、そして政治が個人の不幸を解決してくれると考えていたこと自体が大きな間違いだったのだ。
今、そこで浮上しているのが、「AIに任せれば良いのではないか」という誘惑だ。リベラルにも期待できず、保守による感情的な動員にも疲れた人々が、次にすがりたくなるのが判断や思考そのものを肩代わりしてくれるAIという存在だ。生成AIの急速な普及によって、情報はかつてないほど簡単に手に入るようになった。その反面、人々が自分の頭で考える時間は日々減り続けている。怖いのは、思考能力が低下した結果、自身の思考能力が低下していることを自覚できなくなる恐れがあることだ。人がAIを使っていると思い込んでいる間に、むしろ人がAIに使われている状況になってはいないか。
こうした状況の中で、人々は希望を持ちにくくなっている。特に若い世代の間には「この社会はもはや良心を前提としていない」、「この社会は価値のないものだ」という感覚が蔓延している。良心よりも損得を重視する人の数が増えると、良心を信頼しているからこそありえた社会の枠組みが崩れ、社会から良心が一掃されてしまう。そして人々はそのような社会に希望を持てなくなってしまう。
しかしそもそも希望や幸福は誰かが与えてくれるものではない。この社会が多くの問題を抱えていることに疑問の余地はないが、それでも自分にできることはいくらでもある。その「自分にできること」を拾い上げる、「無いものねだりから有るもの探し」への転換に希望や幸福へのカギがある。
政治は全ての問題を解決できるわけではない。いや、元々政治にできることなどとても限られているのだ。政治や政府などに頼らず、この社会を仲間とともに乗り切っていくことこそが重要だ。遠回りに見えても人と人との関係を編み直すこと。それが不幸を乗り越えるためのもっとも現実的かつ有効な方法なのではないか。
ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が2025年を振り返り、2026年を展望した。