2009年5月9日
  • 文字サイズ
  • 印刷

北方領土問題は終わっている

中村逸郎氏(筑波大学大学院教授)
マル激トーク・オン・ディマンド 第422回

 昨年5月に大統領の座をメドベージェフ氏に譲り首相に就任したロシアの最高実力者プーチン氏が、11日、首相としては初めて来日する。
 建前上ロシアでは、外交は大統領が担当し、首相は経済問題を担当することになっているため、今回のプーチン氏来日では北方領土問題は議論されないことになっている。しかし、日本政府は最高実力者のプーチン氏の意向が領土問題解決のカギを握ると見て、来日を前に早くも、領土問題をめぐる鞘当てが始まっている。中でも、谷内正太郎元外務次官が毎日新聞とのインタビューの中で「3.5島返還でもいいのではないか」と語ったことが、多くの耳目を集めたことは記憶に新しい。
 しかし、ロシア現代政治の専門家で、留学経験も含めロシアを頻繁に訪れ、ロシアの現地事情に詳しい筑波大学大学院の中村逸郎教授は、今回のプーチン首相の来日で北方領土問題が進展することはないだろうと言い切る。そればかりか中村教授は、ロシア側にとってもはや北方領土問題を解決したり、進展させなければならない動機が存在しないため、日本が一貫して守り通している四島一括返還はおろか、3.5島も二島先行返還も、もはやあり得ない状況になっているとの厳しい見方を示す。北方領土問題は、もはや日ロ間の問題ではなく、日本の国内問題と考えた方がいいと言うのだ。
 日本政府は、歯舞(群島)、国後、色丹、択捉の北方四島は18世紀末から江戸幕府の直轄地であり、1855年の日露和親条約、1905年のポーツマス条約、1951年のサンフランシスコ平和条約などを経た今も、歴史的経緯や国際法上、これが「我が国固有の領土」であることは明らかであると一貫して主張している。そして、日ロ両国は、この領土問題が未解決であるが故に、平和条約を締結していない。当時のソ連がサンフランシスコ平和条約には不参加だったため、日本とロシアは法的には未だに第二次世界大戦を戦っていることになる。
 確かに日本にはさまざまな歴史的経緯から、北方領土の四島一括返還の旗を降ろすことが困難であることは理解できる。古くから日本が領有してきた「我が国固有の領土」という主張も十分正当性があるし、そもそも北方領土を含む千島列島は、スターリン下のソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して不当に占領支配したものであり、現在の実効支配には正当性が無いという主張も、もっともな主張だ。しかし、その一方で、サンフランシスコ平和条約で日本が領有を放棄した「千島列島」の中に北方四島は含まれないとする日本政府の主張が、国際法上、日本政府が期待するほど自明なものではないことも事実だ。また、既に北方四島がソ連、そしてロシアの実効支配下に入って60年が過ぎた今、この問題が、単に四島一括返還という日本の主張を繰り返すだけではどうにもならない問題であることもまた、誰の目にも明らかだ。
 中村氏は1990年代、共産主義が崩壊した直後の混乱期にあったロシアが、日本の経済的な支援に価値を見出していた時代には、二島返還であればロシア側が応じてくる可能性はあったかもしれないと言う。また、実際にそのような兆候も何度か見られた。しかし、その時も日本は四島返還にこだわるあまり、その機を完全に逸してしまった。その時、既に日本では、冷戦下に醸成された四島一括返還のドグマに喚起された世論が、今さら「二島先行返還」などという妥協を容認できる状況ではなかった。その間、「二島先行返還」路線で突っ走った政治家や官僚の多くが、売国奴扱いされ、パージされるというおまけまでついた。今でも四島一括返還の立場を否定するような発言を公の場で行うと、学会はもちろんのこと、一般市民からも厳しい指弾を受ける状態が続いているという。
 そして、今やプーチン氏の強力なリーダーシップの下でエネルギー大国として復活したロシアにとって、日本の経済力はそれほど大きな意味は持たなくなってしまった。そうした中で、長い国境線上に他にも多くの領土問題を抱えるロシアが、国際法上もグレーゾーンにある北方領土問題で妥協する理由など全く見当たらないというのが、現在の客観的状況だと、中村氏は言う。
 中村氏はまた、そもそもロシアとの領土交渉で日本は、ロシアにとっての北方領土問題の重要さを見誤ったのではないかと指摘する。他民族を吸収して膨張してきた帝国であるロシアには、国としての核がなく、周辺こそがロシアの本質である。ロシアにとってはたとえ北方領土といえども、それを手放すことはロシアの本質を手放すことに等しいと、中村氏は言うのだ。
 どうやら、ロシアは最初から北方領土を返す気などさらさら無かったが、日本政府がやたらこの問題にこだわりを持ち、また大々的に世論を動員しているところを見て、これを交渉の材料として使えると判断した可能性もある。日本から様々な支援や妥協を引き出すために、ある時は強硬な姿勢を見せ、またある時は二島なら返す妥協的な素振りを見せてみたりしながら、日本を交渉で手玉にとってきただけかもしれないというのだ。そして、今やそれすらも必要なくなったので、北方領土問題は少なくともロシア側から見ると、もはや交渉の材料としての価値すらも失ってしまったということなのかもしれない。
 むしろ日本の方が、上げた拳のしまい場所を早く見つけることを考える必要があるのかもしれない。今となっては、エネルギー大国ロシアから得るものが多いのは、エネルギー貧国日本の方かもしれないのだ。
 頻繁にロシアを訪れている中村氏は、ロシアでは近年ロシア正教会が力を伸ばし、共産主義下で没収された教会領が次々と教会に返還されたため、今やロシアでは正教会こそが最大の財閥になっていると言う。そして、そのロシア正教会が、最近、国後島と色丹島に教会を建てたそうだ。これはロシア人にとってその土地が聖地となったことを意味する。これはロシアが、もはやこの土地を返す気がまったくないことを明示していると中村氏は言い切る。
 プーチン氏来日を機に、未だに二島だ、3.5島だ、四島だのといった「国内向け」の議論を続ける日本政府と、もはや日本を必要としなくなったロシアの国内事情、そして日本にとって真の国益とは何なのかについて、中村氏と議論した。

 
  • 予算審議に見られる既視感の正体
  • 超党派議連が裁判員制度の延期法案
中村 逸郎なかむら いつろう
(筑波大学大学院教授)
1956年島根県生まれ。80年学習院大学法学部卒業。83〜85年モスクワ国立大学留学。86年学習院大学大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。88〜90年ソ連科学アカデミー「国家と法研究所」留学。00年島根県立大学助教授、01年筑波大学社会科学系助教授などを経て07年より現職。政治学博士。著書に『帝政民主主義国家ロシア』、『ロシアはどこへ行くのか』など。
安全保障関連法
沖縄米軍基地問題
スタッフ募集
  • 登録
  • 解除