2012年10月20日
  • 文字サイズ
  • 印刷

iPS細胞と放射能問題の社会学的考察

粥川準二氏(ライター)
マル激トーク・オン・ディマンド 第601回

 京大の山中伸弥教授が今年のノーベル賞を受賞したことで、再びiPS細胞に注目が集まっている。人体のどの細胞にも変わることができることから「ヒト人工多能性幹細胞」と名付けられたiPS細胞はこの先、再生医療や難病の克服などに大きな役割を果たすことが期待される一方で、われわれ人類にまた一つ大きな課題を投げかけることとなった。それは究極的には生命倫理の問題に他ならない。
 バイオ技術に詳しいライターの粥川準二氏は、iPS細胞の画期性として、iPS細胞に先立って多機能幹細胞として登場したES細胞が人間の受精卵の胚を壊さなければならなかったのに対し、本人の細胞から作るiPS細胞はその必要がなかった点と、iPS細胞は自身の体細胞を増殖させたものなので、移植などを行った場合に拒絶反応が起きないと予測されている点をあげる。胚を壊さないことから倫理的ハードルが低いとされるiPS細胞ではあるが、粥川氏はES細胞にしてもiPS細胞にしても、いずれも人間の体以外の場所で細胞を培養しているという点で倫理面での議論は避けて通れないと指摘する。
 粥川氏はiPS細胞が今生きている人と同じ遺伝情報をもっている点に注意が必要だと言う。精子や卵子、あるいは脳、神経細胞だったりはいいのか他者や実験動物に移植することは許されるのか。「今どこかで生きている人と同じiPS細胞を使ってなにかをを行うときに、一体どこまでそれは許されるのかは議論が必要」と粥川氏は語る。
 人間が人間の命に関わる分野にどの程度まで足を踏み入れることが許されるのかという原理的な議論ももちろん重要だ。しかし、それと同時に、こうした先端医療技術には、社会の格差の問題が投影される点も見逃してはならない。そもそも最先端医療には膨大な費用がかかるため、その恩恵に浴せる人は一部の富裕層に限られる。と同時に、そもそもその研究や開発が社会的弱者の犠牲の上に成り立っている面があることを見逃すべきではない。後に大きなスキャンダルとなった韓国のES細胞研究で、卵子を提供した女性の多くは経済的弱者だった。また、最初のヒール細胞のもとになったのも貧しい黒人女性だった。このように粥川氏はバイオ医療の利益と不利益には不均等な配分の問題があることを厳しく指摘する。
 また、医薬品や治療方法ができた瞬間に、大きなお金の動きが発生することが考えられる点にも粥川氏は警鐘を鳴らす。iPS細胞成功のニュースが報じられる段階で、既に「品質」という言葉が当たり前のように使われている。「人体が現在工業製品、あるいは資源としての質を問われるそういった価値をもった存在になったことを意味している」と言う。
 原発事故に伴う放射線被曝についても粥川氏は、放射線への恐れによってある種の優生学的思想が喚起されることを恐れていると語る。誰しも子どもの健康を願うのは当然のことだが、それが行き過ぎると、障がい者の存在を否定するようなものになる場合がある。現に原発をめぐる論争でも、先天性障害や奇形を話題にすることがややタブー視されている面があるのではないか。
 実際にiPS細胞を使った手術を6例行ったとの爆弾発言でしばらく世間を賑わした森口尚史氏については、その発言内容に全く根拠がなかったことが明らかになりつつあるが、森口氏が当初、自らが行ったとする手術について、「iPSしか治療手段はなかった」としていた点は、バイオ医療がこの先直面する大きな問題提起を含んでいたと見ることができる。ある人が病気を治すために、あるいは生存するために本当にそれ以外に手段がなかった時、医学は倫理面での議論が未決着な技術や、十分な安全性が証明されていない技術を使うことを、頭ごなしに否定できるかという問題だ。
 実際、粥川氏は「幹細胞ツーリズム」なるものが既に存在していて、ES細胞が話題になってからネット上で幹細胞を使う医療行為を行うと謳う医療施設が現れているという。治療方法がないと言われている病気に苦しむ人は、僅かでも治癒の可能性があると言われれば、いかなるリスクを冒してでも、その可能性に賭けてみたくなることは当然あり得る。しかし、十分な根拠がない方法を提供することで、「藁にもすがる患者に藁を差し出すのは間違っているのではないか」と粥川氏は言い、動物実験から臨床試験へと至る過程が透明である必要性を強調す。
 最後にバイオ技術が人類を幸せにできるかとの問いに対し粥川氏は、「利益と不利益の総量と分配、それに関わる人の自律性意志の観点において、今ある選択肢を検討することができれば」との条件つきながら、バイオ技術が人間を幸せにする可能性はあるとの考えを示した。
 バイオ問題をさまざまな側面からウォッチしてきた粥川氏と、iPS細胞か再生医療、出生前診断、そして放射能に至るまで、昨今のバイオ技術、バイオ医療、そして原子核と細胞核の両方を意味する「核」技術をめぐる様々な論点について、ジャーナリストの武田徹と社会学者の宮台真司が社会学的な視点から議論した。

 
粥川 準二 かゆかわ じゅんじ
(ライター)
1969年愛知県生まれ。2010年明治学院大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。雑誌編集者を経て96年よりフリー。2006年より国士舘大学、10年より明治学院大学非常勤講師を兼務。著書に『バイオ化する社会』、『クローン人間』、共著に『生命倫理とは何か』など。  

 

安全保障関連法
沖縄米軍基地問題
スタッフ募集
  • 登録
  • 解除