警察による違法な個人情報の収集からいかに市民を護るか
高市政権の目玉政策の一つである「国家情報会議設置法案」の審議が国会で進んでいる。
政府の説明によれば、サイバー攻撃や外国勢力による影響工作、国際テロなどに対応するためには、政府全体の情報収集・分析機能を抜本的に強化する必要があるという。法案は、首相を議長とする「国家情報会議」を新設し、その下に「国家情報局」を置く。警察庁、防衛省、公安調査庁、外務省などが個別に持っている情報を一元的に集約し、政策判断に活かす体制を構築するというのが、法案の骨格である。
しかし、今、われわれが本当に問うべき問いは、「日本に新たな情報機関を作るか否か」なのか。その前に、「日本の情報機関が誰の監視も受けずに活動できる現状を、このまま放置していいのか」が議論される必要があるのではないか。
政府が情報機関を通じてどれほどの国民の情報を収集しているかは、情報公開法を駆使してもわからない。開示請求をしても存否不応答、つまりそのような情報を「持っているとも持っていないとも言えない」という答えしか返ってこないからだ。情報機関は情報公開法の対象からも外れているため、これをどう監視し暴走や情報の濫用をさせないようにするかは、国家にとっては重大な課題となる。
過去には、情報機関や公安警察による違法・不当な監視活動が繰り返し問題となってきた。1999年に発覚した近畿公安調査局による情報公開法制定運動の市民団体への監視。2001年に明らかになった公安調査庁による在日韓国人・朝鮮人の外国人登録票の不正収集。警察が米軍基地反対運動の情報を米軍に提供していた問題。陸上自衛隊によるイラク派遣反対運動参加者の監視。警視庁によるイスラム教徒コミュニティへの一斉監視。大垣署市民監視事件等々、「治安維持」や「情報収集」を名目に、市民活動、宗教活動、外国人コミュニティが繰り返し監視対象となってきた歴史がある。
これらの事件に共通するのは、いずれも内部告発や情報公開請求、訴訟といった事後的な手段によってしか実態が明らかにならなかったという事実だ。日本の情報機関には、その活動を独立して常時チェックする仕組みが、そもそも存在しないからだ。
今国会で議論されている国家情報会議設置法案は、決して新たに「日本版CIA」を作ろうという法案ではない。すでに各省庁に存在する情報機関を、首相のもとで統括・調整するための枠組みを作ろうという法案だ。だからこそ問題の核心は、「何を集めるか」よりも、「誰が監視するのか」にあるべきではないか。
日本では情報機関の活動そのものを監視する制度が極めて脆弱で未整備だ。警察法や各省庁設置法に書かれた任務規定には、「地方の静穏を害するおそれのある騒乱」「公共の安全と秩序を害するおそれのある事案」など、解釈次第でいくらでも拡張可能な文言が並んでいる。誰が、何を根拠に、どこまで情報を集めているのかを外部から検証する手段が、この国にはほとんど用意されていない。
さらに深刻なのが、特定秘密保護法以降の構造変化である。安全保障や外交に関わる情報は長期にわたって秘匿され、政策決定の妥当性を後から検証することが、ますます難しくなっている。アメリカでは一定期間が経過すれば多くの機密文書が解除され、研究者や市民が歴史を再検証する基盤となっている。一方の日本では、秘密指定の延長が繰り返され、関係者が生きている間に公開されない可能性すらある。これでは、政府の判断が正しかったのか、誤っていたのかを、主権者である市民が後世になっても知る手立てがない。
ただし、情報収集能力そのものを全面的に否定する議論には、慎重でなければならない。イラク戦争のとき、日本政府は米国が提供する情報にほぼ全面的に依拠して政策判断を行った。独自の情報収集・分析能力を持たない国家が、他国の情報に依存して重大な決断を下す危うさもまた、看過できないからだ。
問うべきは、「情報機関が必要か否か」でもなければ「情報収集が許されるか否か」でもない。情報機関に対して、どの程度の権限をどのような手続きで与え、その活動を誰がどのように監視するのかが問題なのだ。
情報収集機能の強化と民主的統制は両立できるのか。国家安全保障と市民の自由は、どこでどう線を引くべきなのか。過去の不正な監視事件を出発点に、情報公開クリアリングハウス理事長の三木由希子氏とジャーナリストの神保哲生が議論した。