経済から考える少子化対策と家事労働の価値
大和総研主任研究員
1985年鹿児島県生まれ。2008年早稲田大学政治経済学部卒業。同年大和総研入社。15年~16年に金融庁に出向、アジア金融インフラ整備支援を担当。16年より現職。21年から内閣府男女共同参画推進連携会議有識者議員、22年から社会保障審議会年金部会委員。著書に『35歳から創る自分の年金』、共著に『「逃げ恥」にみる結婚の経済学』など。
なかなか賃金が上がらない日本で、どうすれば働く人の手取りを増やすことができるのか。そして、そもそも手取りを増やすことが今、日本にとって最優先されるべき課題なのか。
先の総選挙で「手取りを増やす」をスローガンに掲げ大きく躍進した国民民主党に、過半数割れした自公連立政権が政策協力を申し入れたことで、かねてから国民民主党が主張してきた「103万円の壁」問題が大きな政治的争点として持ち上がっている。予算を始めあらゆる法案を通すために国民民主党の協力が不可欠となった自公連立政権は、同党の要求はある程度呑まざるを得ないからだ。
国民民主党はアルバイト学生やパート労働者の年収が103万円を超えると新たに税負担などが発生するため、300万人近い人が意図的に労働時間を制限し収入を低く抑える「働き控え」をしているとして、壁の大幅な引き上げを求めている。
いわゆる103万円の壁というのは、パートやアルバイトのその年の収入が103万円を超えると、本人に所得税が課されるようになるほか、親が特定扶養控除を受けられなくなり、結果的に世帯の税負担が増えてしまう問題のことだ。下手に収入が103万円を超えてしまうと、むしろ手取りが減ってしまう場合もある。
国民民主党は103万円の課税基準が設定された1995年から2024年までの間に最低賃金が1.73倍に増えていることから、課税基準も現在の103万円の1.73倍にあたる178万円まで引き上げるべきだと主張している。
実際、働き控えは世帯の収入を低く抑えていることに加え、企業側から見ると、既に深刻な人手不足に拍車をかけている。特に年末にかけてパートやアルバイトのその年の収入が103万円に近づいてくると、それ以上働いてもらえないという現象が方々で起きている。ちょうど年末の書き入れ時に103万円の壁が理由で働いてもらえないのは、企業にとっても痛い。働く側ももっと働きたいし、雇う側ももっと働いてほしいのに、この壁のために働けないというのは勿体ないを超えて理不尽でさえある。
しかし、では国民民主党の主張するように、103万円の壁を178万円に引き上げれば問題はすべて解決するかというと、事はそう簡単ではない。
まず、そもそも103万円の壁を178万円に引き上げるという場合、その内訳をどうするかを決めなければならない。103万円の壁、すなわち所得税の課税基準が103万円からになっている理由は、年収2400万円以上を除くすべての給与所得者が一律で受けられる基礎控除額の48万円と、給与所得控除額の最低水準が55万円なので、それを合わせると103万円になるからだ。その壁を178万円まで引き上げる場合、基礎控除額と給与所得控除額のどちらをどれだけ上げるかによって、恩恵を受ける人や税収への影響に大きな違いが出てくる。
国民民主は基礎控除のみ現在の48万円から123万円まで引き上げることで全体を178万円にする案を主張しているが、その場合、高所得者ほど減税額が大きくなる上に、税収が7兆円以上の減収となる。高所得者に減税の対象を拡げてまで税収をそこまで削ることが正当化できるかどうかが問題となる。
是枝氏は、仮にどうしても壁を178万円まで引き上げる必要があるのなら、基礎控除と給与所得控除の両方をバランスよく引き上げるべきだという。その場合、全体としての減税効果は小さくなるが、低所得層、とりわけ働き控えをしている人の手取りは確実に増える。
親の扶養に入っている大学生のアルバイト収入が103万円を超えると、本人が超過分に対して5%の所得税を課されることに加え、親が特定扶養控除を受けられなくなる。特定扶養控除は所得税分と住民税分を合わせると108万円にもなるため、世帯全体で考えた時の節税効果は大きい。逆に見れば、これを失えば、世帯によっては10万円以上の増税となる。大和総研主任研究員の是枝俊悟氏は、この壁をおよそ180万円くらいまで上げることは現実的に可能だという。
年収の壁には103万円の壁以外にも、パートの働き先が大企業の場合は106万円、中小企業の場合は130万円に大きな壁がある。これは配偶者の扶養に入っている第3号被保険者の年収がこの金額を超えると、夫(妻)の扶養から抜けて自身の社会保険料を負担しなければならなくなる。これもその金額を超えた瞬間に手取りの大幅な減少を招くため、壁になっている。同じくアルバイト学生も、年収が130万円に達すると親の扶養を抜けて自身で保険料を支払わなければならなくなる。
しかし、是枝氏は103万円の壁と比べると、106万円の壁や130万円の壁の見直しはすぐには難しいと言う。壁をなくすには、2つの選択肢の中から選ぶ必要がある。1つは、壁の数字を例えば180万円くらいまで上げて、年収がそこに達するまでは社会保険に入らなくてもよいとする道と、逆に基準を50万円くらいまで下げて、誰もが社会保険に入らなければならないようにする道だ。
壁を180万円まで引き上げれば、年収がその金額に達するまでは社会保険料を払わなくて済むので短期的にはありがたく見えるかもしれないが、その人は将来、最低水準の国民年金しか受け取ることができなくなる。その一方で、壁を下げれば、これまで保険料を払わなくてよかった人や会社に、新たな支払いを求めることになるので、それはそれで強い抵抗に遭うことが避けられない。結局のところ、いいとこ取りはできないという話だが、どちらにするにしても国民的な合意形成が必要になるだろう。
現下の物価高で生活苦に喘ぐ人は確実に増えている。何らかの支援は必要だ。しかし、国民民主党が選挙で上手にアピールした「手取りを増やす」、「103万円の壁」といったレトリックに引きずられて、結果的に7兆円規模の恒久減税を行うことの是非やその影響に対しては、慎重な検討が必要だ。例えば、学生アルバイトに関しては、壁を引き上げてもっと働けるようにするのも結構だが、そもそも多くの大学生が学業をそっちのけで毎月10万円ものアルバイト代を稼がなければならない状態を放置していていいのか。内閣府の調査では日本の大学生がアルバイトに費やしている時間は他国と比べても群を抜いているという。ならば103万円の壁を取り払うと同時に、国際的にも低い水準になる教育に対する公的支出を増やすことで学生や学生を持つ親の負担を軽くしたり、学生が学業に専念できるような教育改革なども同時に進めなければ、本末転倒にならないか。
国民民主党が主張する「103万円の壁の見直し」の本質はどこにあるのか、単に壁を引き上げれば問題は解決するのか、働き控えの解消や手取りを増やすためにはどのような政策的選択肢があるのかなどについて、厚労省の社会保障審議会年金部会の委員も務める是枝俊悟氏と、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。