1958年長野県松本市生まれ。81年東京大学文学部卒業。87年同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。90年社会学博士(東京大学)。東京大学文学部助手、千葉大学文学部講師・助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授を経て、2007年より同大学教授。09年退職。10年より個人思想誌「THINKING「O」」主宰。著書に『社会学史』、共著に『現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』を読む』など。
本番組の司会を務める宮台真司氏の大学時代からの師匠である社会学者の見田宗介元東京大学教授が、この4月にご逝去された。見田氏は必ずしもお茶の間に広く知られたタイプの学者ではなかったが、その世界では知る人ぞ知る、「知の巨人」として不動の地位を築いた存在で、「見田なくして現在の社会学は存在しない」とまで言われるほど、社会学の発展に寄与し、また独自の分野を切り開いてきた。いや、そればかりか見田氏の研究や評論活動は、既存の社会学の枠を大きく踏み越え、今日われわれの社会が抱える様々な問題の本質をいち早く見抜くとともに、早くから誰もが思いつかないような見事な処方箋を提供していた。
そこで今回のマル激では宮台氏と、宮台氏にとって東大の見田ゼミで1学年兄弟子にあたる元京都大学大学院教授の大澤真幸氏に、見田教授の人物像や功績を振り返ってもらい、社会学関係者や学究関係者は言うに及ばず、社会学の門外漢のわれわれに見田教授が残してくれたものが何だったのかなどを、恩師を偲びつつ語ってもらった。
大澤氏も宮台氏も、一般人が読むべき「見田学」への入門書として、まず『気流の鳴る音』を推す。この本は見田教授が東京大学の助教授時代に4年間、中南米やインドなどを放浪した後、1年間メキシコ大学院大学で客員教授を務めた都合約5年間の経験を1冊の本にまとめたもので、見田教授の本名ではなく、教授が時折使ってきたペンネーム「真木悠介」の著者名で出されている。社会学者が書いた紀行文ではあるが、その中身は人間の生き方や幸福とは何かといった根源的な問いの連続で、今日のわれわれの日々の生活に対する本質的な問いかけや疑問が次々と投げかけられる。例えば、本文中に紹介されているヤキ族というインディオの教えとして、こんなものが紹介されている。われわれは「美しい道を静かに歩む」だけでいい。「心のある道をゆき、美しい道を静かに歩む人々にとって、蓄財や地位や名声のために道を貧しく急ぐことほどいとわしいことはないだろう。市民社会の存立原理としての利害の普遍的相克性は、欲求の禁欲と制約によってではなく、欲求の解放と豊富化によってはじめて原理的にのりかえられうる」などだ。
見田教授の根源的なメッセージを代表するキーワードを一つ選ぶとすれば何になるか、との問いに対し、大澤氏は「根をもつことと翼をもつこと」、宮台氏は「テレオノミーとランナウェイ」とそれぞれ答えた。その意味はそれぞれ社会学的な説明を要するとのことなので、そこは番組内の両氏の説明に譲りたいが、それを素人言葉に置き換えると、こんな感じになるらしい。要するに見田氏は、現在人類が直面する地球温暖化や大量消費・大量廃棄に起因する地球環境問題、社会の空洞化や分断などがもたらす様々な社会問題を解決するためには、とかく提唱されがちな我慢や抑制、禁欲を強いるのではなく、これまでわれわれが勝ち取ってきた自由を手放すことなく解決する必要がある。それを実現するために見田氏は問題に対する視点を変えることで、その処方箋を見事に描いて見せた。そこに見田氏の、余人を持って代えがたいすごさがあるのだと、大澤氏も宮台氏も口を揃えて語る。
今回のマル激は見田教授の追悼番組として、大澤真幸、宮台真司の見田教授の愛弟子二人が、見田氏の代表作である『気流の鳴る音』、ヒューマニズムの対象を人間のみならず動物にまで広げてみせた『自我の起原』、見田学の基本とも呼ぶべき『現代社会の存立構造』(以上いずれもペンネーム真木悠介として出版)、見田氏が愛してやまなかった『宮沢賢治』、永山則夫との交流に基づく『まなざしの地獄』などの著作を紹介しつつ、見田氏の功績とその理論の卓越性をジャーナリストの神保哲生とともに振り返った。