なぜ今これまでにないほど核戦争の脅威が高まっているのか

明治学院大学国際平和研究所客員所員、明治学院大学名誉教授


1947年広島県生まれ。72年広島大学医学部卒業、同大学医学部産科婦人科学教室入局。81年医療法人あかね会土谷総合病院産婦人科部長。90年河野産婦人科クリニック開業。著書に『いま“生きる底力”を子どもたちに!』、『さらば悲しみの性』など。
「いつかはおとずれる、被爆者のいない世界」
これは8月6日に開催された広島・平和記念式典での子ども代表による平和への誓いの冒頭の言葉だ。
広島・長崎の原爆投下から80年、被爆者の平均年齢は86歳を超え、原爆による被害の悲惨さを訴え続けてきた被爆者は亡くなっていく。核武装を安易に主張する若い政治家もいる中で、核戦争の抑止の力になってきた被爆者の活動の意義があらためて重要になっている。
核をめぐる世界の状況は緊張の度を増している。抑止目的だったはずの核が、むしろ脅しの道具に変わってきているのではないか、と自身も被爆二世で核廃絶に一市民として取り組んできた産婦人科医の河野美代子氏は強く嘆く。河野氏の父親は、爆心地から500メートルの場所で作業中だった一年生が全滅した、広島第二中学校の教師だった。たまたま少し離れたところにいて助かったのだという。
被爆二世であることを強く意識した医学生だった河野氏は、当初白血病の研究をするために小児科医になろうと考えていた。しかし、産科婦人科学教室で原爆小頭症の研究が行われていることを知り、産婦人科医の道を選んだと話す。
原爆小頭症とは、被爆時に妊娠初期だった母親から生まれた多くの子どもに見られる、頭が小さく知的障害や運動障害を伴う症状のこと。もっとも若い被爆者と呼ばれている。
アメリカが原爆の影響を調査するために戦後広島に設置したABCC(原爆傷害調査委員会)は、胎内で被爆して子どもに発症する原爆小頭症の存在を把握していたが、当事者たちには長い間、その障害が被爆によるものであることは知らされていなかった。当事者や親たちが集まって「きのこ会」という会を作るのは被爆から20年たった1966年のことだ。
番組では、戦後80年に合わせて東京で開催された「きのこ会」の写真展も紹介している。ここに展示された写真は、被爆者に対する強い偏見・差別を理由にメディアからの取材を拒んでいた原爆小頭症の子を持つ親たちを、当時写真を学んでいた大学生が説得して撮影した貴重な記録だ。河野氏は、広島以外では原爆小頭症のことがあまり知られていないことに驚くと言い、写真展が東京で開催されたことの意義を強く指摘する。
河野氏は、自らも60歳を迎えた時から仲間と「8・6 ヒロシマ平和の夕べ」という活動を始め、多くの被爆者の話を聞き、伝えてきた。その中には、漫画「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんや児童文学者の那須正幹さんも含まれている。河野氏が話を聞いてきた被爆者の多くは、すでに亡くなってしまった。被爆者たちは誰もが核兵器がなくなる日を夢見ていたと、河野氏は無念の思いをもって語る。
被爆二世で産婦人科医という立場で核の問題と向き合ってきた河野美代子氏と、被爆者の思いをどう若い人につないでいくか、社会学者の宮台真司と、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。