法秩序が崩壊した世界を日本はどう生き抜くか
九州大学名誉教授、放送大学名誉教授
1982年滋賀県生まれ。2007年獨協大学法学部卒業。21年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(国際貢献)。専門は国際刑事法、アフリカ政治。内閣府国際平和協力研究員、ケープタウン大学法学部客員研究員、宇都宮大学国際学部助教などを経て21年より現職。宇都宮大学 Global Justice & Peace Research Institute代表を兼務。25年1~4月、客員専門家として国際刑事裁判所に勤務。著書に 『現代アフリカの対外政策と国際刑事裁判所』、近刊に『武力紛争と国際人道法』など。
世界は今、完全に無法地帯と化してしまうかどうかの瀬戸際に立たされている。そのせめぎ合いの最前線が国際刑事裁判所をめぐる攻防だ。そして、今回ばかりは日本も傍観者でいることは許されない。
トランプ米大統領は8月18日、国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長と、セネガル出身のアブドゥライ・セイ弁護士を制裁対象に指定した。2人はアメリカに入国できなくなり、アメリカ国内の資産は凍結される。さらにアメリカ企業との取引が制限されることで、クレジットカードをはじめとする金融サービスが使えなくなり、日常生活にも影響が及ぶ。
赤根所長が制裁対象となった背景には、ガザでの軍事作戦をめぐりネタニヤフ首相とガラント前国防相に対して出された逮捕状に、判事として関与したことがある。ICCは2024年11月、ガザで飢餓を戦争の手段として用いた疑いや民間人への攻撃を意図的に指示した疑いなどを理由に、戦争犯罪と人道に対する罪の容疑で両氏の逮捕状を発行した。ガザでの犠牲の甚大さから、これをジェノサイドに相当する行為だと見る向きも国際社会には根強い。
アメリカによるICC関係者への制裁は昨年から拡大しており、2025年2月以降、これまでにICC関係者13人が制裁対象に指定された。そのうち判事は9人で、ICCの裁判官18人の半数を占める。
いったいなぜ一国の政府が、国際裁判所の裁判官個人にこれほど強力な制裁を科すのか。
そしてこれは日本にとっても他人事ではない。赤根所長は日本政府がICC裁判官候補として送り出した人物であり、日本はICCを資金面でも支える主要な加盟国だ。その赤根所長が職務を忠実に遂行した結果、アメリカから制裁を受けている。日本はこの事態にどう向き合うべきなのか。
ICCは、戦争犯罪やジェノサイドなど重大な国際犯罪を犯した個人を裁くため、2002年に設立された常設の国際裁判所だ。現在125カ国・地域が加盟しており、日本も加盟国だが、アメリカやロシア、中国、イスラエルなどは加盟していない。
アメリカは、ICC非加盟国である自国やイスラエルの国民にまでICCの捜査や訴追が及ぶことに強く反発してきた。アメリカはICCの根拠となる条約「ローマ規程」を批准しておらず、ICCの権限を受け入れていない。アメリカからすれば、自分たちが参加していない条約によってつくられた裁判所が、なぜアメリカ国民を裁けるのかということになる。
一方、ローマ規程では、容疑者の国がICC非加盟国でも、犯罪がICC加盟国で行われた場合、ICCは権限を行使できる。ICCからすれば、加盟国で起きた重大犯罪であれば、容疑者がアメリカ人やイスラエル人だからといって対象外になるわけではない。アメリカが「誰を裁くのか」を問題にするのに対し、ICCは「どこで犯罪が起きたのか」を重視しており、ここの主張の違いが対立の根底にある。
ICCをめぐる対立や反発は、アメリカとの間だけで起きているわけではない。実際、ブルンジやフィリピンは、自国内の問題に対するICCの捜査などに反発し、ICCから脱退している。また、ICCがアフリカやグローバルサウスの国々を選択的に扱ってきたとの批判もある。ニジェールやブルキナファソ、マリ、ベネズエラ、チャドも脱退を通告しており、来年脱退する予定だ。
ICCの問題に詳しい宇都宮大学国際学部の藤井広重准教授は、こうした状況のなかで、アメリカによる制裁がICCへの不信や反発をさらに強め、加盟国の減少につながる可能性を危惧する。
ICCには自前の警察組織がない。容疑者の逮捕や身柄の引き渡しなど、ICCの実効性は加盟各国の協力に依存している。それだけに、ICCを支える国が減っていけば、裁判所としての機能そのものが弱まりかねない。
それでもICCのような国際法廷が必要とされるのは、国家による裁きだけでは重大な国際犯罪の責任を追及できない場合があるからだ。ロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルによるガザでの軍事行動をめぐっては、戦争犯罪や人道に対する罪などが問われている。国家が自ら裁こうとしない重大犯罪を誰が裁くのか。ICCはまさにそのために作られた仕組みだ。
ではなぜトランプ政権はICCにこれほど強硬なのか。11月3日に中間選挙を控えるアメリカ国内の政治事情も一因とみられ、共和党が連邦議会の多数派を維持できるかどうかは、残る任期の政権運営を大きく左右する。今回のICC制裁も、こうした選挙戦を意識した動きという見方が番組内で示された。
では、日本はどうするのか。
スペインやフランスなどが強い言葉でアメリカを非難する一方、日本政府は「大変残念」「大変深刻に受け止めている」と表明するにとどまり、制裁を強く非難したり、制裁の撤回を求めたりはしていない。
政府の対応に対しては日本国内からも批判の声が上がっている。国会議員による「人権外交を超党派で考える議員連盟」は8月24日、制裁をめぐる日本政府の対応に対する非難声明を発表した。日本政府の対応は「諸国と比べて段違いに弱い」とした上で、日本政府に対し、制裁に明確に抗議し即時撤回を要求するよう求めた。また、議連の共同代表の中谷元衆院議員は9月4日、日本外国特派員協会の会見で「言うべきことを言わずに忖度ばかりしているとアメリカからも評価されなくなる」と批判している。日本から輩出されたICC所長が同盟国であるアメリカから制裁を受けているにもかかわらずだ。
藤井氏は、重大犯罪を国際的に裁こうと、20年以上にわたり国際社会が積み重ねてきたICCの歩みをここで止めてしまうのはもったいないという。ICCが絶対的な正義だというつもりはない。だからこそ、様々な批判と向き合いながら、より普遍的な国際法廷へと育てていくことが重要だ。藤井氏は、そこでリーダーシップを取れるのはまさに日本ではないかと指摘する。
国際的に重大犯罪を裁く仕組みを大国の圧力からどう守るのか。まだ不完全なICCをより世界に根づいた国際法廷へとどう育てていくのか。その時にアメリカの同盟国であると同時にICCを支える主要国でもある日本はどのような役割を果たすべきなのかなどについて、宇都宮大学国際学部准教授の藤井広重氏と、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。