被災者を置き去りにした「復興災害」を繰り返さないために
東京都立大学人文社会学部教授
1965年神奈川県生まれ。83年東京都立町田高校卒業。会社勤務を経て95年より陸前高田市議。2007年陸前高田市助役。11年2月より現職。著書に『被災地の本当の話をしよう』、『がんばっぺし!ぺしぺしぺし!』
あの震災から2年が経つ。未曾有の大災害に見舞われた被災地はいまどうなっているのか。節目のこの時期にメディアの報道も増えてはいるが、実際に被災地の復興はいったいどこまで進んでいるのか。今週のマル激は、ジャーナリストの神保哲生が2年前の震災直後に取材した岩手県陸前高田市を社会学者の宮台真司とともに再訪し、現地からの特別番組をお送りする。
陸前高田市は17mを超す巨大津波に襲われ人口の約9%にあたる1700人以上の市民と市街地のほぼ全域を失った。その時点で就任から1ヶ月も経たない新人市長だった陸前高田市の戸羽太氏は当時の様子をこう話す。「津波が退く時、がれきと一緒に流されていく人たちが沢山いた。市役所屋上に避難できた我々から、ほんの10〜15m先のところなのに、どうすることもできなかった。ただ『頑張れ』と声をかけることしかできなかった。絶対に忘れられない光景です」。
それから2年。現在の陸前高田市は市内全域につもったがれきの撤去こそ進んだが、その後にガランとした広大な更地が放置されたままになっている。商店も住居も何一つ戻ってきていない。復興などまったく手つかずの状態だ。その間、被災住民は仮設住宅での暮らしを余儀なくされ、商店も営業再開のメドはたっていない。
なぜこれほどまでに復興が進まないのか。戸羽氏は「復興、復興」とかけ声だけは盛んな政府や行政の本気度に疑問を呈する。そもそも現在の復興計画は阪神淡路大震災の教訓を元に作られた復興特措法に沿って行われている。しかし、これは地震のみを想定したもので、これだけ広範囲に津波の被害が及ぶ災害は想定外だ。同じ場所に建物を建て直すことができる地震と比べ、津波の被害を受けた地域は、高台への移転や土地のかさ上げなどが必要となる。復興特措法が想定していない問題には、ことごとく許認可行政の壁が立ちはだかる。例えば、高台移転のために新たに山林を切りひらいて宅地を造成する場合、通常の開発行為と見なされ、承認に大臣の決裁を必要となるため、半年も待たされるという。戸羽市長は「地震と津波の被害が全然違うものであることが理解されるまでに2年かかった。」「口では『被災地に寄り添う』などと言っているが、果たしてこれが被災地のことを考えた復興なのか」と憤る。そして「千年に一度の大災害であるならば、そこからの復興もまた千年に一度の特別な体制で進めて欲しい」と訴える。
人間味が感じられない縦割り行政や許認可行政の壁もさることながら、戸羽氏はこのような緊急時に「おれが責任を取る」として介入してこなかった政治の責任も厳しく批判する。法律にその規定がない以上行政官僚が「官僚的な」対応しかできないのはある意味では当然のこと。そこに政治本来の役割があるはずだが、「民主党政権では最後までそれがなかった」と戸羽氏は言う。戸羽氏はまた、安倍政権になってからここまでは政治が積極的に関与する姿勢を見せていることを歓迎しつつも、「もし安倍政権でも復興が進まなかったら、いよいよわれわれは絶望するしかない」と、危機感を募らせる。
戸羽氏の危機感の背後には、被災地を覆い始めている半ば諦めにも似た無力感と、あたかも被災地の存在を忘れたかのように振る舞い始めている被災地の外の日本社会の姿がある。そもそも政治が動かなかった責任の一端は、われわれ市民にある。先の総選挙でも被災地の復興は選挙の争点にならなかった。われわれ日本人はある程度時間が経てば、同じ国の中で未曾有の災害に遭遇して困っている人たちのことを平気で忘れてしまうような国民になってしまったのだろうか。
戸羽市長は市街地が全壊したためにゼロからの街作りをしなければならなくなったことを奇貨として、今後、陸前高田を障害者も高齢者も誰もが同じように暮らせるバリアフリーな福祉都市として再興していきたいとの抱負を語る。「復旧で同じ街を作り直すのではなく、自分たちの知恵で新しい街を創り出すための復興にしたい」という。従来のような街づくりでは、今後地方都市が生き残っていくのは難しい。悪夢のような震災からの復興を機に、本当の夢のある、特色を持った新しい街を創り出そうというのだ。
震災から2年経った今もなぜ陸前高田は更地のままなのか。何が復興の足を引っ張っているのか。街が全壊した陸前高田は再び甦ることができるのか。その際の足かせとなっているものは何か。ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が、プレハブの陸前高田仮市庁舎で戸羽市長に訊いた。